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 セミナーでの発表要旨を自分なりにまとめたものです。必ずしも正確な内容ではありませんから(特に英語の発表に関しては聞き取り能力の限界もあるので)、引用はしないでください。下線部をクリックすると概要紹介に飛びます。

目次

Ingrid Kurz  「通訳訓練のための協力体制と近代技術の応用」

呉 剛      「大学学部における翻訳教育について」

Michael Francis 「会議通訳養成の文化的・実践的側面」

Alessandra Riccardi 「通訳の評価法」 

Luigi Luccarelli  「通訳技術以外の面で会議通訳の質に影響を与える要因」 

Roda Roberts  「コミュニティ通訳者の位置づけ」 

夏 平    「映像翻訳の特徴」


Ingrid Kurz  「通訳訓練のための協力体制と近代技術の応用」

 プロの会議通訳者を養成する大学院での教育は、豊かな教養と高い語学力を持つ学生に通訳の技術を教授することが目的である。職業教育としての要請から、通訳訓練は通訳市場の現状と連動して行われなければならない。そこで、実際に会議通訳を行う際にいかなる技術が必要かを分析し、専門分野の用語の調査方法に関して検討する必要が生じる。以上の目標を達成するために、教育訓練の中で様々な技術的手段を応用することによって学生のパフォーマンス向上と要領のよい事前準備の方法を指導することができる。

 逐次通訳と同時通訳の訓練法に関しては、ヨーロッパではAIICがガイドラインを出しており、それなりの歴史を持っている。しかしこれまでの訓練は技能強化を中心にした非常にシンプルで実用的な方法である。これからの会議通訳者養成においては、第一に各方面の協調による訓練、第二に近代技術の応用が必要になる。

 第一の協調体制に関しては、次のような方策が考えられる。通訳者養成大学院において多言語間で、指導方法・レベル設定・学習内容の一貫性をはかり、学内でマルチリンガル会議(リレー通訳実習)の機会をもうけることなどが考えられる。また学外の国際会議オーガナイザーとの提携による生の会議資料(ビデオテープ、カセットテープ、論文集など)の提供によって、学生が現在の市場のニーズをつかむための勉強に材料を提供できる。

 第二は、学内で多言語模擬会議をする際に、一定の期間を決めて一つのtopicを指示し学生にスピーチの準備をさせる。このとき、専門用語の収集とスピーチ作成にインターネットを利用させている。実際の模擬会議ではそれぞれの発表と通訳をすべてビデオ撮影して、事後の討論に供する。ビデオを見ながらの討論で強調しているのは、通訳はコミュニケーションであることだ。特に逐次通訳では、スピーカーも通訳者も eye contact が重要であり、書いたものを読み上げるのではよい伝達ができないこと、聴衆を常に観察しながら話を進めること、などを教えて全体的なパフォーマンスの向上をはかっている。

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呉 剛      「大学学部における翻訳教育について」

 大学学部における翻訳教育は現在二つの方向性を持つものとして考えられている。ひとつは独立した学科としての翻訳学教育、もう一つは実践技術としての翻訳訓練である。翻訳に対する市場のニーズがますます増えてきているため、外国語学部で学んでいる学生たちは、学外からは当然にように理論研究ではなく、翻訳の実践技術を身につけることが期待されている。翻訳学科を設置する場合、理論研究と技能研究を別々に分けて考える必要があるかもしれない。

 現在の翻訳教育はどっちつかずのもので、実際に翻訳をさせるとはいっても、テキストの最長単位は文である。指導する教授と学生はいずれも文法的な解説に重きを置きがちであり、また模範解答を求めようとする傾向がある。SLとTLのテクスト全体としての比較を行うという視点は非常に少ない。また、大学教育の一環として翻訳を指導するならば、原作のタイプ、文体、時代背景、作者の特徴などについても検討すべきだろう。SLをとりまくコンテクスト全体をとらえることで鑑賞力と分析力の向上をはかり、ひいてはより適切な翻訳を行う力をつけていくべきであろう。

 また、学生は自分の翻訳を再度分析することによって、自分がどのように考えてそう訳したのか、つまりそのような訳文が出現した根拠を振り返ることが必要だ。ほかにも back translation を通じて、原文の意味が再び現れるかどうかを検証してみることもできる。このような訳し戻しの作業は訳した本人が行ってもよいし、ほかの学生が行ってもよい。この作業を行うことによって、原文と訳文にどのような差異があるかを発見することができよう。

 だが、別の考え方として学部に翻訳学科を置くこと自体に対する疑問もある。というのは外国語と母語の非常に高い能力を身につけた時点から翻訳教育を始めるべきだという考え方から言えば、外国語学科の上、つまり大学院に翻訳学科を設置することになる。大学院では理論と実践の両方をこなす人材が必要だ。現在、市場で求められている翻訳のレベルはすでに修士課程修了レベルまで上がってきていて、翻訳を依頼するクライアントも翻訳者に高い教養を求めているからである。そこで、翻訳を職業とする方向へ進む者は修士まで、翻訳理論を修める者は博士課程に進学するということを考えている。こうした大学院での翻訳教育には教師の質も問題で、翻訳の各方面、つまり functional、communicative、literatural および理論(通時/共時)について講義のできる教官をそろえなければならない。

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Michael Francis 「会議通訳養成の文化的・実践的側面」

 通訳とは「言葉で表現された思考を分析することを通じて異文化間コミュニケーションを行う」ことである。コミュニケーションと思考は非常に似通った活動で、そのどちらも言語を用いる。「人は話す動物である」と言われるが、人間は、話し相手がいなければ自己に向かって話し(これを思考と呼ぶ)、話し相手がいれば他者に向かって話す(これをコミュニケーションと呼ぶ)。

 以上の定義から、通訳を教えるには、1.文化 2.プラグマティズムの二つの要素があると言える。さて、より簡単なほうから見ていくことにしよう。プラグマティズムとは何か。プラグマティズムを説明するために恰好のジョークがある。「ある日、イタリアの山中で良い司祭と悪いバス運転手の車が衝突し、良い司祭は地獄へ、悪い運転手は天国に行った。司祭は納得がいかず、なぜ自分が地獄に落とされるのか神様に尋ねた。神様は言った。『私の裁定は純粋なプラグマティズムに基づくものである。司祭よ、あなたが教会で説教をしているとき、人々はみな眠気をもよおした。だがあの運転手が車を運転している間中、乗客はみな神に祈っていたのだ』」

 もっと簡単に言うと「植物学を学びたいのかね?それなら本など読まないがいい。本を買うお金があればあらゆる植物を集めてきて君の家の庭に植えなさい。育てて、観察して、顕微鏡で覗いて、君のノートを植物の絵でいっぱいにすることだ」。つまり、会議通訳を育てたいなら、学生をブースの中に坐らせて繰り返し練習させておけばいい。これがプラグマティズムだ。

 さて、次は非常にやっかいな問題、文化について。「文化については口に出すな。さもないとリボルバーが火を吹くぜ!」と言いたくなるほど(もちろん我々は文化人なのでそういうことは言わない)、文化の定義は難しい。cultureを辞書で引くと十一種類の定義が見られるが、通訳訓練について話すために適当だと思われる定義は見つからない。そこで私は自分なりに範囲を狭めた定義をこしらえた。通訳者養成における文化の定義とは「これまで受け継がれてきた集団の思考パターンに基づく語による考えの表出」。

 つまり会議通訳者が行っていることは「思考の分析による文化的転換操作」なのである。教育を受けたことがなく、ずっと同じ村で暮らしている二人の農夫の言語コミュニケーションの範囲は非常に狭いものである。しかし言語の違い、立場の違い(たとえば哲学者と文学者の対話)によって言語コミュニケーションにかかわる両者の距離と関連する思考の範囲は拡大する。このような両者が話し合おうとするとき、かならず通訳者が必要になる。通訳者は言葉を手がかりにして、語に転換される前の思考がどのようであるかを見いださなければならない。通訳者は語から話し手の脳へと逆行して、彼の思考そのものとコミュニケーションを取るのである。

 話し手の用いる言葉は彼が属する文化の道具である。どの言語も特定の思考パターンを持っている。通訳者がその言語の文化的パターンを修得していなければ、素人が複雑なコンピュータを初めて扱ったときのような結果しか得られないだろう。たとえば、最新の装備を備えたドイツの乗用車を買ったとき、フランス語に翻訳したマニュアルがついてきた。だが私にはそのフランス語はまったくちんぷんかんぷんだった。これは訳者がおのおのの言語が持つ思考パターンを全く考慮しなかったためだ。ユーザー・フレンドリーなマニュアルは文化と思考のパターンに沿って表現されたものであり、語を置き換えたものではない。

 つまり、通訳を学ぶ学生が自分のworking languageが話されている国に行ってしばらく住んでみることがきわめて重要になってくる。これは自国にとどまって通訳のスキルにひたすら磨きをかけることよりも重要な勉強である。たとえば英語とフランス語の通訳者であれば、両者の思考のパターン、発想法、文化をほぼ完璧に理解し、使い分けられるようでなければならない。英国文化は基本的に経験主義的、実践的である。それをフランス式の厳密な構造と思想原則を有するデカルト的なロジックに置き換えなければならない。これは印象派の絵画をイタリアの精細画に書き換えることにも通じる作業だ。

 そして最後に、自分の作業言語におけるユーモア感覚を身につけること。「笑う力を失う時、考える力も失う」と言った人もいるくらいである。特に良い教師はユーモアを用いてクラスの学生の興味をかき立て、やる気を起こさせるものだ。我々教職者は、教室に入るのをためらわせるような退屈な授業をしてはならない。

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Alessandra Riccardi 「通訳の評価法」

 近年、談話のエラー分析やパフォーマンス評価に関する研究が進むにつれて、言語だけでなく非言語やパラ言語の重要性も認識されるようになってきた。スピーチ能力というものは、単に全体的な印象から大ざっぱに評価するのではなく、いくつかの側面にわけて何が不足なのかを発見することが重要である。さて、通訳の訓練を受けている学生にとって、特に注意すべき事は何だろうか。また、アマチュアとプロフェッショナルの通訳者の間にはどのような違いが存在するのだろうか。通訳訓練の課程で、何を特に強化すればプロの通訳者へスムーズに移行できるのだろうか。

 通訳を教える教師に対するインタビューや教室授業の取材などから、下記のような評価表を作成した。これは逐次通訳と同時通訳では多少の項目の違いがあるが、基本的に通用できるものである。また、この評価は口頭での発表パフォーマンスのみを考慮している。

Evaluation sheet の内容
○ 音素:発音の間違い
○ プロソディ:不適切なアクセントやイントネーション
○ プロダクション:言い直し、早口、聞き難い話し方
○ 身体言語:アイ・コンタクト、手振り身振りなど、聴衆へのアピール
○ 語彙:一般的な語彙エラー、専門用語が適切に使えていない、など
○ 意味:不適切な接続詞、結束構造上の間違い
○ 論理:論理的な不整合
○ 脱落:情報の漏れ
○ 追加:SL(起点言語)にない情報の追加
○ 冗語:「あー」、「えー」など
○ 談話:スピーチ全体の筋道がよくわかるかどうか
○ 通訳テクニック:適切なメモ、同時通訳の構文処理
○ 柔軟性:予定にない内容への対処
○ 解決:困難をいかにうまく処理するか
○ 印象:聞き手の受ける印象の善し悪し

 以上の評価シートは学生の段階に応じて項目を増減して用いることができる。初級段階のうちは、基本的な語学力の項目に配点を多くしたり、中級段階では話のロジックやプロダクションを特に強調したりと、学習が進むにつれて徐々にパフォーマンスや全体的な印象の項目の指導を強めていくことができる。また、学生の特徴やA言語とB言語のバランスに応じて評価表の項目と評価基準を使い分けることも可能である。

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Luigi Luccarelli  「通訳技術以外の面で会議通訳の質に影響を与える要因」

 これまで通訳の質の評価といえば、個別の通訳者の語学力や通訳力をテストすることばかりが話題になり、それ以外の要素、つまり個人の能力をこえた部分で如何なる要因が通訳の質を左右するかに関してはほとんど関心が払われていない。また通訳訓練課程でも、その場のアウトプットを問題にし、どうしても通訳のテクニック習得に偏りがちである。こうして、通訳の質イコール通訳者の能力ととらえられてしまう。実際の通訳では、その他の要因、すなわち、通訳者の置かれている環境、発言者、通訳継続時間など、通訳者自身ではコントロールできない事柄によって通訳の質が大きく変わってくることは誰もが経験済みの事実である。

 では、具体的にどのような要因が通訳の質を決めるのだろう。

○ SLの話速
 常に通訳の現場で問題になる。通常は一分間に100〜130語だが、早口のスピーカーは140〜180語になる。話速を抜きにして通訳の結果だけを見て質を云々することはできない。

○ 会議の事前準備に使える時間がどのくらいあるか
 事前準備のための資料が余裕をもって予習できる時期に提供されるかどうかも非常に大きな問題だ。

○ 同時通訳を一人で何分間くらい続けられるか
 会議通訳は普通は20分程度で交替しながら行う。通訳者を被験者とした実験によると、エラーが出始めるのは15分をすぎた時点からである。そのまま継続して通訳をさせてみると、だいたい50分で限界を感じ、これ以上は続けられないと訴える。また、これと同時に行われた実験では、リスニング、シャドーイング、同時通訳が通訳者に与える緊張の度合いを測っている。実験結果では、大ざっぱに言えばリスニングの緊張度を1とすると、シャドーイングは2、同時通訳は3という感じである。ここから見ても同時通訳がいかに緊張度の強い仕事かがわかる。

○ その他の要因
 ブース・エチケット(同僚が協力的かどうかなどを含む)、場や状況の把握など。

○ ブース
 AIICの助言を得て、ISO規格のブースが使われる。これはAIICが定めた発言者のガイドラインとともに、通訳者のストレスを軽減する目的を持っている。

 さて、通訳者に対して聞き手は何を求めているのだろうか。国際会議の出席者に対するアンケート調査の結果は以下の通りである。約60%の聴衆は同時通訳の「なめらかさ」を気にしている。そのほかの通訳者に対する要求を多い順になあべると次の通りである。「内容をもらさず訳出しているかどうか」、これは何度も同時通訳つきの会議に参加している人が特に気にする。次に「発言と通訳の同時性」すなわち発言に遅れずに即座に訳出しているかどうか。ただし同時通訳を聞くのは初めてという聞き手は、この「同時性」についてはほとんど関心を持っていない。第三位の「表現力、レトリックの技術」、第四位の「声のよさ」は通訳に慣れている人も慣れていない人も一貫して気になると答えている。

 さまざまな環境や条件のなかでプロの通訳者が様々な環境の中でも比較的に高い品質を安定して維持している秘訣は何だろうか。通訳訓練生とプロを比較すると、通訳スキル以外で最も大きな違いは、プロが外的要因の変化に柔軟に対応し、セルフコントロールができるということである。このストレス管理能力を学生にどうやって教えていくのかが今後の課題である。

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Roda Roberts  「コミュニティ通訳者の位置づけ」

 コミュニティ通訳は通訳の最も原初的な形態である。カナダの通訳の始まりは十五世紀に遡る。最初にカナダに来たフランス人が原住民と意志の疎通をはかるために、若いインディアンを二人誘拐してフランスに連れ帰り、言葉を教え込んでからカナダを再訪した。これがカナダのコミュニティ通訳の最初である。

 コミュニティ通訳の仕事の範囲は非常に広い。公共サービス、対話、エスコート、医療、ビジネス、ガイド、学校教育などで通訳を必要とする場合にはすべてコミュニティ通訳が使われる。このため、コミュニティ通訳という名称に反対している人々もいる。ここではコミュニティ通訳者を「活躍の場としてコミュニティをベースにする通訳者」という意味合いで使っていきたい。しかし、コミュニティ通訳は定義も基準もかなり曖昧である。

 上述のような仕事は様々な呼ばれ方をしてきた。たとえば移民に対する社会サービスとしての通訳は社会文化的な融合を強調するので「文化通訳」と呼ばれることがある。あるいは一対一の対話を訳すという側面に注目し、「対話通訳」と呼んでみたり、通常は非常に短いセンテンス単位の通訳を行うことから「逐語通訳」だと言われたりする(会議通訳は同時通訳と7分程度の長文逐次通訳ができなければならない)。
 また訳出方向に関してもコミュニティ通訳は双方向訳出が行われるが、会議通訳は「into A」が普通で、法廷通訳はほとんどが「into non-official」言語へ訳す。

 ボランティア通訳者が多いこともコミュニティ通訳の特徴である。多くの場合、二カ国語を話すかどうかだけが問題で、通訳の経歴は問われない。そこで、コミュニティ通訳を行う者に対する訓練はあまり行われていない。オーストラリア、カナダ、スウェーデンではコミュニティ通訳の訓練を受けられる場所があるが、非常に本格的な教育とは言えないし(大学院レベルではない)、学習時間も短く、内容も比較的簡単なものにとどまっている。こうした訓練を受けてフリーで仕事を受けるコミュニティ通訳者は、通訳者派遣業者に登録したり、個人や企業に雇われて仕事をしている。

 会議通訳、法廷通訳は長年の発展のなかで形成されてきた基準を持っているが、今のところ雑多な業務を何でも引き受けているコミュニティ通訳には何らの基準もなく、世界で唯一の統一基準があるとすれば、それは「二カ国語を話すかどうか」の一点につきる。このため、コミュニティ通訳に対する訓練も達成目標の設定はかなり困難だ。

だが、この十年ほどでコミュニティ通訳の果たす役割が重視されるようになってきており、その業務範囲、定義、仕事をするための最低限の能力基準、効果的な訓練方法などに関しても検討されるようになってきている。最終的には世界各国のコミュニティ通訳について、ある程度のコンセンサスを得られるようにしたい。そうすることで初めてコミュニティ通訳者の身分の保証と職業上のアイデンティティ確立が実現する。 

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夏 平    「映像翻訳の特徴」

 世界中で字幕を利用した外国映画が上映されている。中国では三十年代から四十年代にかけて“譯意風”(訳注:「通訳フォン」:画面のせりふを同時通訳で訳出し、拡声器で観衆に聞かせる形式)と呼ばれる設備で音声訳をつけていたことがあるが、これはあまり効果的なやり方ではなかった。その後、外国映画には声優がアフレコで訳をつける方式が定着した。改革開放後は特に外国映画が大量に輸入され、シナリオ翻訳者と声優の需要が急激に増加するようになった。映画翻訳は、翻訳者、翻訳監督、声優の三者が協力して行うものである。

 文体から言えば映画の翻訳には以下のような特徴がある。

 つぎに、どの程度までオリジナルに近づけるかという問題がある。字幕を読んでも意味がつかみかねるような不自然な翻訳はできないが、かといって何の違和感もないような翻訳も理想的とは言えない。なるべくもともとの映画が持っている外国らしさ、西洋的な感じを訳文の中に残しておきたい。簡単な例をあげよう。画面に西洋人が映っているとき、「WOW!」と言ったとする。この感嘆詞を中国語の「アイヤー!」とは訳さない。やはり「ワオ!」と訳すのである。そのほかの台詞も同様に、国語に同化しすぎず、しかも不自然すぎもしない訳出を行う。したがって、外国映画のアテレコや字幕は、純粋な中国語の口語ではない。観衆の需要によって作り上げられてきた、言ってみれば、エキゾチックな中国語口語という、特殊な種類のことばなのである。どの程度まで原文の雰囲気を保持すれば、理想的なエキゾチック中国語になるか。この程度の問題が非常に難しい。これには歴史的な問題もある。現在の中国人は欧米のサブカルチャーに慣れ親しんでいるので、受け入れ可能な幅は広がっている。例えば、昔、アメリカ映画の中で若者が格好いい先輩を見て“Cool”と言った。この「クール」はどう中国語に訳すか非常に悩んだが、現在の若者たちなら香港や台湾の「酷」を借用しても、問題なく理解してくれる。

 さらに、映画の翻訳には字数の制限がある。俳優が口を開いて喋っている時間と、翻訳した台詞に要する時間が一致しなければならない。アテレコでは、俳優の口の形によって、画面に自然に乗る音が制限される。俳優が口を大きく開けているときに「イー」という音が聞こえるのは不自然だからである。こうして、画面をにらみながら最もうまく当てはまる文字を探していく作業が必要になる。

 このほか、英語の“though”、“unless”などは文末に来ることがしばしばある。だが、同じ意味のことばは中国語は文頭に置く。だが、これを文頭において訳してしまうとまずいことになるのである。というのは、俳優がこれらの語を最後に付け加えた時に、それらしい表情を作るからである。

 翻訳理論家のナイダは、翻訳は言語の表面構造を別の言語の表面構造に移植するのではなく、分析−転換−再構成のプロセスであると言っている。つまり翻訳は形式的に忠実であっても意味がないのである。具体的な例をあげよう。“ At the expense of everything else. My health, my family, my fiancee ... She left me. She knew she had a rival” この中国語訳は「我犠牲了其他一切。我的健康、家庭生活、未婚妻...(女也)(足包)了,我太忙,顧不上(女也)」である(日本語に訳すと、「他のことは何もかも犠牲にしてきた。健康も、家庭も。婚約者まで失った...。忙しすぎてかまってやれなかったんだ」)。
 英語の原文の一番最後を見てみよう。She knew she had a rival.である。これを「(女也)知道(女也)有競争対手。」(彼女は自分にライバルがいたことを知っていた)と訳すと、一般の中国人は必ずこの主人公には婚約者の他に恋人がいたのだと理解してしまう。だが原文の言う「ライバル」は主人公の「仕事」を指しているのである。

 また、映画「ALF」ではこんなやりとりがある。宇宙人ALFが人間の家に泊まった翌朝、家の主人の歯ブラシを勝手に使ってしまう。
 Willie : You used my toothbrash?         (イ尓)用過我的牙刷(ロ馬)?  俺の歯ブラシ使ったのか。
 ALF : Yours is the green one , right?   (イ尓)用緑的那把,対(ロ馬)? うん。 緑色の、だよね。
  Willie : It was.                                      我不用了。            もう使わないよ。
 もし最後の It was を「かつてはそうだった」 と訳すことはできない。「かつてはそうだった」とは、すなわち「今はそうではない」、つまり「もう使わない」と解釈してやらなければ意味の分かる字幕にはならない。
 しかしその一方で、本国人にも理解できる面白みのある比喩などは積極的に翻訳の中に取り入れていきたいものである。例えば“That's right. It's nose-to-the-grindstone time for this parasite.” という台詞の中にある慣用句、“keep one's nose to grindstone”は、「埋頭从事辛苦的勞動」 (つらい仕事を休まずにこつこつとやる)という意味だが、これを 「不錯,本寄生虫該拉着磨盤轉轉(口拉)」(そのとおり。この寄生虫はひき臼を引きながらぐるぐる回るのがお似合いってところさ)とそのまま訳しても、中国人にもイメージがわきやすいし、オリジナルの持っているおもしろさが味わえる。

 四文字熟語の使用に関しては、台詞の翻訳では十分注意しなければならない。翻訳者はほとんどがインテリだから、原文を見て高級な四字成語をすぐに思い浮かべるかもしれない。しかし、画面でその台詞をしゃべっているのが子供や市井の庶民、あるいは大悪党だったら、あまりに似つかわしくない。しかも中国語の成語は古典に典拠のあるものが多く、多くの場合、濃厚な東洋文化の色彩を感じさせてしまうものである。金髪碧眼の欧米人の口から出るのは不自然である。

 また、映像翻訳で最も頭を悩ませるもののひとつに駄洒落、ジョークのたぐいがある。テレビの「ソープ・オペラ」と呼ばれるような番組では、面白い台詞や動作があるたびに効果音のように笑い声があがる。この笑い声と同時に視聴者を笑わせることができるかどうかが翻訳者の腕の見せ所だ。意味通りに訳しても、アメリカ人のジョークが中国人にとって笑えるものとも限らない。かけことばで、“You want your freedome, but freedome is never free.”のなかで、freedome(自由)とfree(無料)をかけている。これをうまく訳すのは非常に難しい。また、“He's gone. He's halfway to Peking by now.”という台詞があった。ここでPekingをそのまま北京と訳すことはできない。なぜなら、実際に北京に向かったわけではなく、ここのPekingは「地球の裏側、最も遠い場所」という誇張された意味を持っているからである。したがってここでは「他早就遠走高飛了」(やつはとっくに高飛びした)と訳したほうがよい。

 このほか、個別の社会や文化に依存する冗談も外国人にとってはわかりにくいものである。例えば、一つの会社に落ち着かず何度も職を転々としている孫を諭す祖父が“Suppose you wanna be Lee Iacocca.”(アイアコッカになるつもりなのか)と言う。ここでアメリカ人は大爆笑する(アイアコッカは何度も会社をかわって最後に成功した企業家)。だが、中国人は何が面白いのかわからない。

 映像翻訳は翻訳の中でも特に制約の大きな難しい仕事である。原作の持つ効果をできるかぎり伝える目的を持つという映像翻訳の特徴によって、言葉の機能を訳出するという面からの研究が可能である。

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