長沙馬王推

  「後漢書」裡有一條記載,說「炎帝神農氏死後葬於長沙」,雖然事後這幾千年來,後人都沒有能夠找到可靠的跡象來證實古書的記載,但是長沙這塊地方和這個地名早就已經出現在古代歷史的活動中則是毋庸置疑的。再從其他幾部歷史書上去仔細推敲,長沙在中國歷史的地位也不是可有可無的,至少在大家所熟悉的三國時代,孫權和劉備就曾經在這裡打得你死我活,而忠肝義膽的關羽先生便是在這場爭奪戰中賠了性命,捐了身軀換來了「忠義千秋」的牌匾流芳百世,這是長沙的驕傲,也是長沙的遺憾。
  古代專管天象的天文官認為「天則有列宿地則有州域」,而長沙的地理位置正好對應天上星宿中一顆叫做「長沙」的小「壽星」,因此而命名,理論上長沙是個吉祥的名字,但實際上從歷史的活動來觀察,長沙卻是一個戰火頻頻,禍患不斷的地方。三國時代的吳蜀之爭不過是幫長沙的戰火暖暖身而已,明朝末年張獻忠揮軍直搗長沙,把長沙弄得雞飛狗跳,而後「闖王」李自成兵敗,明朝的舊臣湖南巡撫何騰蛟收編「闖王」的殘餘部隊,長沙搖身一變又成了抗清的基地。時隔兩百年之後,當洪秀全再打著反清的旗號領著太平軍一路橫衝直撞大軍掃過長沙,就在長沙舊城東南角的「天心閣」下挖掘地道,埋過火藥、舖過地雷,而清軍也在這裡加設炮台九座以抵抗內亂。兩軍交戰,長沙又是雞犬不寧。
  亂不斷的中國後來又招惹了外患,太陽旗武士刀兵臨長沙城下,「長沙大會戰」幾乎把它搗為平地,要不了多久,「國共」又傷了和氣一發不可收拾。當時彭德懷先生也曾經在「天心閣」對著八路軍說「勝不驕敗不餒」的一席訓詞。有人說「天下的紛爭」無非起源於解釋的不同,看來,國共這一團已經傷了半個世紀的爭紛,還有的解釋。

六三○五七,東西方向好,必定心舒暢,自己多努力,財源有方向,同志問求財。
同志問求財?
財源有方向,自己多努力,必定心舒暢,東西方向好,南可北不旺。
往南走可以,往北不旺,東北就不要去了。
對。
西伯利亞就更慘了。西伯利亞不好。謝謝!
這是石灰?
對。
這是什麼?
桂子油。
桂子油是比較香是吧?
辣。
比較辣。
這是什麼東西呢?
檳榔裡面的心。
檳榔心?
你一天吃多少檳榔?
我一天吃兩個。
一天吃兩個檳榔? 你很能吃啊。吃了以後全身會熱?
對。
一個多少錢啊?
一個四塊。
你吃檳榔的樣子很好看,吃檳榔的樣子很瀟灑。你一天吃多少檳榔?
一天五個。
五個多少錢?
五塊錢。
一個月吃150塊檳榔,大企業家才吃得起。
他是服務公司的經理。
噢,服務公司的經理啊! 怪不得。
你們很熟練,可以吃嗎? 給我一顆吃,試試看。
人家買的你吃。
等會補錢,沒關係。
他沒有吃過檳榔。
要人命! 你害我害得很慘。

  在長沙往瀏陽的公路上,一個名叫屯渡鄉的小地方,一直都是荒塚累累,其中有兩個最大的土堆,相傳可能是五代時,楚王馬殷家族的墓地,因此地名叫做馬王堆。但是在一九五一年,經過考古工作者仔細的調查,推翻了這項說法,判斷是一處西漢時期的墓群。二十一年後,一九七二年,馬王堆正式挖掘,結果,竟在墓室中,發現了一具保存完好,已經在地下寂寞了兩千一百年的女屍。她,年齡推算大約是五十歲左右,二千年來,天增歲月卻不再為她添華髮。
  考古學家花了兩年的時間,先後在馬王堆挖掘初三座墳墓,從出土的三顆印章「長沙丞相」「軑侯之印」和「利倉」,證實是西漢初年,長沙國丞相軑侯利倉家族的墓地。二號墓葬著是利倉本人,一號墓的女屍便是利倉夫人,而三號墓則是利倉的兒子。人死入土為安,但是因為丞相家庭過於隆重厚葬,使得利倉夫人長眠兩千年後還能重見天日,而她的不朽則在考古「卓有貢獻」之餘也換來了一次有失尊嚴之嫌。但有歷史見證價值的「開棺驗屍」。

劉先生,麻煩你談一下咱們馬王堆漢墓出土之後對學術上產生什麼樣的影響?
馬王堆漢墓呢,是一九七二年到一九七四年發掘的,那麼它的出土呢,使我們比較完整的了解到了漢初,包括政治、經濟、軍事、文化等等方面的情況。在這個墓當中呢,三千多件隨葬品呢,保存都非常完整,作為學術上來看呢,我們首先要肯定的一點呢,就是在三號墓當中,出土了12萬多冊的帛書,那麼這些帛書,絕大部分是我們過去已經失傳的一些古代的遺書。這部分遺書,在政治上、經濟上、軍事上、文化上的內容,包括相當的廣泛。我們發現了最早的一本醫書,這個上面有關於怎麼樣動外科手術的問題,怎麼治小兒科病的問題。那麼在馬王堆的絲織品呢,這個是我們考古的一大收穫,過去我們只知道漢代的絲織品是非常好的,西方一直把中國叫絲國,我們有一條到羅馬的古道,叫絲綢之路,那麼漢代的絲綢到底好到什麼程度,這是過去啊,一直不為人所了解和知道的,經過這個墓發掘後,出土了大批的漢代的絲織品,包括綾、羅、錦、繡、綺這麼幾大類。其中有兩件衣服袍子,重量都不到一市兩,一件重48克,一件重49克,這個充分表現出中國紡織工業在漢代是非常發達的。另外關於這個屍體的保存,我們搞了幾十年考古發掘,像這樣完整的出現屍體的兩千多年屍體的,這個在大陸是不多見的。據統計一地是在長沙,一地是在湖北。那麼這個屍體的保護,它主要採用了木炭和白膏泥,還有多層棺槨的這個密封,然後把它深埋,很顯然這是古人啊,有意識為了保留下了她的屍體和隨葬物品。而經過不斷地總結經驗以後,多次經過總結經驗有意識把它加以製作。

還有這個在繪畫在藝術上有什麼樣的影響?
繪畫藝術上,我們在過去漢代中國,我們過去漢代中後期發現了很多這個漢代的繪畫藝術。那麼漢代早期,基本上是空白。馬王堆的一號墓跟三號墓分別出土了一些畫,這個畫呢,使我們第一次了解到了漢代初期的繪畫藝術風格,在這個畫上呢,主題的紋飾是龍紋和雲紋,那麼這個龍紋和雲紋呢,反映出漢人這種博大的氣勢。這個我們想什麼東西再大也不如天上的雲彩大,所以這就反應漢代人的博大胸懷和他這種藝術風格,填補了這一段中國繪畫歷史的空白。

  從馬王堆的漢墓裡,考古學家挖掘了一件重量僅有49公克的素紗單衣,一張中國最早的健身圖譜和兩幅中國最古老的地圖,當然也包括了那一具千年不朽的利倉夫人,算是對中國漢代的科學和手工業一次頗能符合歷史成就感的驗證,而第二號墓室發現被盜掘過的痕跡,又證明了雞鳴狗盜的手腳總是比考古學家魔高一丈快了半拍,他們雖然不能驗證什麼,卻獲益匪淺。至於考古學家,竟然能夠推證利倉夫人生前曾經守寡三十年,則不得不讓人警惕「若要人不知,除非己莫為」,美麗的謊言也許可以包裝醜陋的政治,但是不管政治上有多少個「馬王堆」,歷史和考古遲早都會打開它的包裝,攤開在太陽底下,這樣的工作是不講交情的。


和訳(翻訳担当:獨協大学永田ゼミ M・J&K・Y)

 『後漢書』に炎帝神農氏は死後、長沙に埋葬されたという説が記載されている。それから何千年間もその説を実証するに足る根拠を発見するができなかった。しかし、長沙とその地名はすでに古代の事跡に出現していることは疑うべくもなく、さらに、そのほかの歴史書を詳しく検討すると、長沙は中国においては、重要な存在であり、少なくとも三国時代に、孫権と劉備がかつてこの地で死ぬか生きるかの戦いをしたことはよく知られている。忠実な臣下であった関羽はその戦いの中で命を失い、自らの生命で、百世に渡って、「忠義千秋」の美名を残した、それは長沙の誇りである同時に、長沙の無念でもある。
 古代の天文学者は「天には星座があり、地には州がある」と言う。長沙の地理的位置はちょうど「長沙」という名前の小さい星座にあたるため命名された。この理屈から言えば、長沙は縁起のいい名前であるが、実際の歴史から見ると、長沙は度重なる戦役と災害の絶えない土地であった。三国時代の「呉蜀の戦い」は長沙の戦いの皮切りにすぎなかった。明代末年には張献忠が長沙を大混乱に落とし入れていた。 
 その後、「闖王」李自成が挙兵して敗れ、明朝の旧臣で湖南の巡撫、何騰蛟が残りの軍隊を収容し再編成し、長沙は清朝に抵抗する基地となった。200年後、洪秀全が再び太平軍を指軍し、清に抵抗する旗印を揚げ、長沙に進軍し、長沙旧城の東南にある「天心閣」の下で、地下道を掘り、火薬を埋め、地雷を敷いた。一方、清軍も内戦を防ぐために9台の砲台を設置し、長沙は再び戦乱に巻き込まれ、治安は乱れた。内戦が続く中、中国は外国からの侵略も受けている。日本の軍国旗と軍刀が長沙城下に攻め込み「長沙の大会戦」によって長沙は破壊し尽くされ、その後間もなく「国共」内戦が勃発し、ますます収拾がつかなくなった。当時、彭徳懐は「天心閣」で八路軍に「勝っておごらず、負けて怯まず」と言った。「天下の紛争」は解釈の違いから起こると言うが、半世紀に渡った国共の対立にはまだほかの見方もあるようだ。

63057、東西はよい、心が安らぐ、よく努力せよ、金運には方向がある、同志が財を請う
同志が財を請う?
努力せよ、金運は方向がある、東西はよい、心が安らぐ、南はよい、北は不可。
南にいくとよいのだが北はよくない、東北は行かないほうがいい。
そう。
シベリアなんか行ったら大変だ、シベリアはだめだ、ありがとうございます。

これは生石灰?
はい
これは何?
肉桂の油
肉桂の油は味がいいのかな?
辛い
これは何?
ビンロウの実。
ビンロウの実?
一日どれくらい食べますか?
一日2個食べます
一日2個? たくさん食べますね。食べると体が熱くなりますか?
はい。
一個いくらですか?
4元です。
ビンロウを食べている様子がなかなかかっこいいですね、一日何個食べます?
5個
5個いくらですか?
5元です。
一ヶ月150元もビンロウに使うのでは大企業家でないと。
彼はサービス会社の社長さんですよ。
そうですか? なるほど
上手ですね、ひとつ食べてもいい? ちょっと試してみよう。
人が買ったのをあなたが食べるの?
後でお金を払うから
ビンロウを食べたことがないのね。
死ぬかと思った、これはひどい

 長沙から劉陽へ向かう道の途中に、屯渡郷という小さい町があり、昔から荒れ果てた塚が点在していたが、その中に特に大きい土塁があった。五代の楚国の王、馬殷一族の墓地であると伝えられ、馬王堆と呼ばれていた。しかし、1957年、考古学者の調査によって、その説が覆された。西漢時代の墓地であることが分かったのである。21年後の1972年、馬王堆が正式に発掘された結果、その墓室の中に完璧に保存されている2000年も前の女性のミイラが発見された。50歳前後のこの遺体は2000年ものあいだ死亡した時そのままの状態を保っていた。
 考古学者たちは2年間かけて馬王堆でまず3基の墳墓を発掘し、続いて出土した「長沙丞相」、「軑侯印」、「利倉」といった3本の印から、それらの墳墓が前漢初年、長沙国の丞相であった軑侯利倉一族の墓地であることが証明された。2基目の墓は明らかに利倉本人、1基目の墓にあった女性の屍は利倉夫人、そして3基目の墓は利倉の息子のものであった。屍を土に埋めるのは鎮魂のためだが、丞相一族は厳かに手厚く葬られていたため2000年の長い眠りの後にようやく外界の光のもとにさらされた。利倉夫人の遺体がほぼ完全な状態で発見されたことは、考古学に著しい貢献をもたらしたが、それとひきかえに尊厳を失った嫌いがあるようだ。しかしこれは歴史から見れば、「棺を開けて屍を調べる」価値を有している。

劉先生、お手数ですが馬王堆漢墓の出土が学術にどのような影響を与えたのか話していただけますか?
墓は1972年から74年にかけて発掘され、政治、経済、軍事、文化などを含めた漢代初期の事物についての私達の理解をより完全なものにしてくれました。この墓の中には3000余りの副葬品が、どれもきわめて完全な状態で残っています。学術上から見て私達がまず認めなければならないのは、3基の墓の中から12万冊余りの帛書が出土し、これら帛書の大部分が、私達が過去に失ってしまった古代の書物だったということです。書物の内容は政治、経済、軍事、文化とかなりの広範囲にわたっていました。最古の医学書も発見されました。どのように外科手術を行うのか、どうやって小児がかかる病を治療するかなどに関する事柄が記載されています。
馬王准の絹織物は、私達考古学者にとって非常に重大な収穫でした。これまで漢代の絹織物は非常に優れていたということは分かっていました。西洋諸国は中国を絹の国と呼び、シルクロードと呼ばれるローマへ通じる道まであったからには、漢代の絹はいったいどれほどすばらしかったのだろうと考えてきましたが、この墓の発掘によって、かつては創造するしかなかった漢代の綾絹、薄絹、錦、刺繍などを含めた何種類もの漢代の絹製品が大量に出てきたのです。
その中には2枚の長衣もありました。1枚は48グラム、もう1枚は49グラムと、2枚とも50グラムにも満たないものです。この事は、漢代中国の紡織業が非常に発達していたということを余すところなく表しています。その他にも、この墓で発見された遺体の保存について言えば、考古学者は何十年ものあいだ、このような2000年以上たっても完全なまま保存されている遺体の発掘に取り組んできましたが、発見されたものはごく希で、1つは長沙で、もう1つは湖北で発掘されています。またこの遺体は保存には主に木炭と石膏が使われ、さらにこれを多層の外棺と内棺で密封し、その後にそれを土中深く埋めています。これは古代の人が彼女の遺体と副葬品の原形を留めようという意識をもっていたためであることがあきらかです。
絵画芸術にはどんな影響があったのですか?
絵画芸術において、漢代中国の中後期には多くの作品があったことはわかっていましたが、漢代初期についてはほとんど知る術がありませんでした。馬王堆の1基目と3基目の墓から1枚ずつ絵画が出土したことで、私達は漢代初期の絵画の様式を知ることができました。主題となる紋様は龍と雲です。この2つの紋様は漢の人々がこのように気勢豊かであったことを表しています。どんなに大きなものでも空の雲ほど大きなものはない、つまりこれはそのまま漢代の人々の広い心や雄大な芸術様式を反映しており、学問的に空白であったこの時期の絵画の歴史を埋めてくれることになりました。

馬王堆漢墓から考古学者はわずか49グラムの白い絹の単衣と、中国で最も古い健康図譜を1冊、地図を2枚、そして2000年間朽ちずにいた利倉夫人の遺体を発掘した。これらは中国漢代の科学や手工業の状況を証明する歴史的成果となったが、2基目の墓室には盗掘された痕跡があることも判明し、盗掘者たちが考古学者たちよりも1枚上手であったことも証明された。彼らは盗んだものが何かを調べることこそできなかったが、莫大な利益を得た。考古学者はなんと利倉夫人が生前30年ものあいだ寡婦を通してきたということまで推測し、人々に「悪事は必ず人の知るところとなる」という警句を思い起こさせた。きれいごとの嘘は腐敗した政治を包み隠してしまう。政治にすら多かれ少なかれ馬王堆が存在する。歴史学や考古学はいずれこの包みを開け、太陽の下にさらす。彼らの仕事には、容赦がないのだ。