岳陽樓與滕王閣

  洞庭湖在長江中游,像一個手掌,打在血肉相連的湖南和湖北兩省的交界地帶,而把大約六分之五的面積攤在湖南境內,昔日號稱「八百里」。

  那天洞庭湖下著滂沱雨,天地模糊,聽不見白居易詩里的「猿攀樹立啼何苦」,看不見李白吟詠的「洞庭西望楚江分」,更無緣瞻仰范仲淹「岳陽樓記」裡的「朝暉夕陰,氣象萬千」。范仲淹在岳陽樓望洞庭湖,說它「銜遠山,吞長江」。但壞就壞在這「吞長江」,歲歲月月下來,長江泥沙日積月累,竟然也就把洞庭湖給濃縮了將近三分之一,而今洞庭湖已經不是天下最大,而太遠的山恐怕也已經銜不住了。

  洞庭湖雖然不如以前浩瀚,魚蝦卻是從來沒少過,詩人李商隱就曾經寫詩形容這裡的魚蝦,「鬧若雨前蟻多如秋后蠅」,因此洞庭湖雖然沒有能夠保住「第一湖」的頭銜,但總算還維持得住「魚米之鄉」的聲望。「魚米之鄉」,偶爾來的這一場風雨交加,閒散了漁家卻樂壞了魚蝦。

  岳陽是個古來的城鎮,在湖南北部,洞庭湖和長江交會的匯合處,正因為地形上和這兩個水域有「守望相助」之便,便成為傳統的戰爭中,兵家必爭的據點,從春秋戰國打到軍閥割據,大朝代打大戰爭,小朝代打小戰爭,打出了英雄豪傑,也打出了土匪流寇。然而岳陽的名氣並不是戰火提煉出來的,而是肇因於地盤上那一座與戰火頗有淵源,又與詩人的文章攀親帶故的「岳陽樓」而名聲遠播。它號稱一千七百多年的歷史,但實際上天上人間都是風風雨雨,它倒毀過,重建過,修修改改,只是姓名不改。建築物卻早已不是宋朝范仲淹大筆作記的那一座,更不是唐朝開元年間剛從閱兵台改造而成的那一座,最近的一次「落成典禮」是一九八四年五月一號,掐指一算不過六年的光陰,在台北建個地下鐵也不只六年。

  遠在東吳漢時代,岳陽樓只是一個囤積糧草的糧倉,名為「巴丘邸閣」,當時,東吳的孫權為了和劉備爭奪荊州,派大將魯肅駐紮此地訓練水師,而將「巴丘邸閣」擴建為「巴丘城」,並在西門城樓上搭了個閱兵台,蓋了個閱軍樓,成了岳陽樓的前身,唐開元四年中書令張說被貶到了巴丘,大張旗鼓,把閱軍樓改建成「南樓」,後來才命名為「岳陽樓」。三百三十年後,彷彿歷史重演,宋朝的滕子京被貶到洞庭湖邊,重建岳陽樓,手筆更大,名氣更響。

  不過偉大的不是岳陽樓的歷史,而是岳陽樓的文章。張說重建岳陽樓常邀當代的幾位大詩人,登樓閣,把酒臨風吟詩作對。好比李白、杜甫、韓愈、孟浩然、白居易和李商隱也都是座上客,字字千金,儘往岳陽樓上貼金,而後,滕子京重建。當時正在鄧州帶兵打仗的范仲淹在戰火紛飛之中百忙抽空,寫了一篇三百六十來字的「岳陽樓記」,也留下了「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂」的千古名句。范仲淹手上的筆為岳陽樓錦上添花,但他手上的劍卻沒能夠為大宋江山雪中送炭。不過歷史的心胸寬大,後來大宋滅了,范仲淹卻成了中國文學史上的一道光芒。

  湖北武漢長江邊上有一座黃鶴樓,湖南岳陽的洞庭湖畔有一座岳陽樓,而江西南昌的贛江之濱不甘寂寞, 也有一座富麗堂皇的滕王閣,三者鼎足而三,並稱「江南三大名樓」,同樣地有顛簸的歷史,也同樣地有不朽的文章,為「文史一家」樹立傳之後世的典範。滕王原是一個出了名的風流貴族,他是唐高祖李淵的第二十二個兒子,唐太宗李世民的弟弟。據說他從徐州刺史被調派到當時叫做洪州的南昌,擔任都督,心中大為不爽,便在蘇州找來了一班歌舞樂伎,整天尋歡作樂。因為隨從當中有一位出了一個餿主意,為了在贛江邊的山崗上,既能覽山川之秀又可觀歌舞之樂,於是建了這座滕王閣,那年唐朝永徽四年,公元六百五十四年,距今一千三百三十七年,比岳陽樓早了六十三年。

  滕王閣它是公元六五四年,唐永徽四年吧,我記得由唐太宗的弟弟滕王李元嬰在這裡任洪州都督的時候蓋的樓。原先它是只有二層還不到,現在六層,後來因為火災燒掉了,到目前這棟新作的滕王閣為止,燒掉了總共毀建了26次,現在27次,現在是28次重建了。我們這棟大樓是仿宋的結構,等於是宋代的滕王閣。你看這些房子,結構、色彩、壁畫、宮燈全是宋代的。

  據史書記載,滕王李元嬰其實只是一個貪杯好色聲名狼藉的貴族皇親,只因為沾了滕王閣留名千秋的光,才使得他有幸揚名立萬,而滕王閣的名聲正如黃鶴樓、岳陽樓的翻版,還是歸功於詩人王勃為它寫了一篇風采飛揚的序,不過寫這片序文的同年,王勃便因為到南方省親,跋山涉水的時候不慎落水,驚嚇過度,第二年便一病不起,眼睛閉上的時候只有二十八歲。而那位追隨聲色的滕王李元嬰照樣活的是鶯聲燕語天下太平。滕王閣則在後來變成了歌聲舞影歌台舞榭的戲台酒樓。

  歷史的進化正加速地進行,軌跡上的週期變短了,循環變快了,「江南三大名樓」都彷彿繡在一件老制服上的學號,充其量只代表過去一段歷史風光而已。年老色衰的中國正努力的想換一套制服,但她茫然不知所措,因為新制服還找不出該繡什麼樣的光榮學號,更何況這一套新制服還不知道在哪裡。

1-1岳陽楼と滕王閣(翻訳担当:獨協大学永田ゼミ Y.T&X.C)

 洞庭湖は長江の中流に位置し、手のひらのようなかたちをした湖である。省境を接する湖南省と湖北省にまたがりおおよそ六分の五の面積は湖南省に属している。かつては「八百里」と称されていた。この日、洞庭湖は大雨にみまわれ、水平線すら定かには見えなかった。白居易の吟じた「猿は樹を攀じて立ち鳴くことの何ぞ苦しき」という詩にある猿の声も聞かれず、李白が詩にうたった「洞庭の西側は楚江を望む」という景色も見られない。範仲庵が仰ぎ見た「岳陽楼記」の「朝日と夕日は様相が変化に富んでいる」という一節ともなおさら縁がない。範仲庵は岳陽楼から洞庭湖を臨み、「遠山、長江を呑む」と形容した。しかしこの「長江を呑む」ことこそが景観を破壊する元凶となったのである。

 長い年月が経つにつれて長江にはだんだんと土砂がつもり、あろうことか洞庭湖の面積は三分の一近くにまでなった。今日では洞庭湖はすでに国内で最大の湖ではなく、さらにたいそう遠く引き離された山にもとどかなくなっている。洞庭湖はかつての広大さに及ばないものの、魚介類の豊かさは昔と変わらない。詩人李商隠はかつてこの湖の豊かな水産資源をこのように形容している。「雨の前の蟻のように多く、秋が過ぎたあとの蝿のように騒がしい」。それゆえに洞庭湖は昔日の姿を今にとどめることはできなかったとはいえ、「魚米の郷」という名だけはどうにか返上せずに現在に至っている。この日「魚米の郷」に起こった暴風雨は湖から漁民の姿を一掃させ、魚たちを喜ばせることとなった。

岳陽は歴史のある町で、湖南の北部、洞庭湖と長江の合流地点に位置している。ちょうど地形上この二つの水域によって両方から見守られている要害の地にあるため、古来の戦争においては必ず軍の駐屯地となってきた。春秋戦国の争いから、軍閥割拠に至るまで、大国どうしの大きな戦争や小国どうしの小さな戦争がおこり、英雄や豪傑を輩出しただけでなく土着の盗賊も生み出した。しかし岳陽の評判は決して戦火が生み出したものではない。地元で戦火と深い関連をもち、さらに詩歌と関連がある「岳陽楼」によってこの地の名声が高まったのである。「岳陽楼」は1700年以上の歴史で知られている。しかし実際には岳陽楼は崩壊と再建、修復を繰り返している。ただ名前だけは変わらなかったのである。建築物自体は、宋王朝の範仲庵が健筆をふるったものでも、唐王朝の開元年間に閲兵台を改造してできあがったものでもない。最後の「落成式」は1984年5月1日で、指折り数えても6年しか経っていないのだ。台北の地下鉄も着工からすでに6年あまりが経っている。

 東呉、漢の時代には岳陽楼は糧秣を大量に貯蔵する穀物倉庫にすぎなかった。名称を「巴丘邸閣」といい、当時呉の孫権が劉備と戦って刑州を奪うために大将の魯粛を派遣しこの地に駐屯させ水軍を訓練した。この時、「巴丘邸閣」を建て増しして「巴丘城」とし、西の城楼の上につくってある閲兵台を建設し、閲軍楼を建てている。これが岳陽楼の前身である。唐の開元4年に中書令張説(ちょうえつ)は巴丘に左遷させられ、閲軍楼を再建して「南楼」とした。「岳陽楼」と名付けられたのはその後のことである。330年後、あたかも歴史が繰り返されるかのように宋代には滕子京が洞庭湖の近くにに左遷され、岳陽楼を再建してから、ますます詩人が描くところとなり、評判はさらに轟いた。

 しかし偉大なのは岳陽楼の歴史ではなく、岳陽楼にまつわる文学である。張説は岳陽楼の再建後、大詩人をたびたび招き、閣楼の上で酒杯を手に風に吹かれながら詩を吟じさせた。たとえば李白、杜甫、韓愈、孟浩然、白居易、李商隠もみな上客として招きに応じた。詩人の筆になる言葉のひとつひとつが千金に値し、岳陽楼の価値を高めた。その後、滕子京によって再建されたが、当時ちょうど鄧州に兵を率いて戦闘をくりひろげていた範仲庵は戦火の飛び交うなか、忙しい戦の合間に一篇360余字にもぶ「岳陽楼記」を著した。「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみの後に楽しむ」という不朽の名句も残している。範仲庵によって書かれた岳陽楼はさらに名声を高めた。彼のふるう剣は宋国を危機から救うことはできなかったが、懐の深い歴史のおかげで、宋朝が滅びたあとも範仲庵の名は中国文学史上の一筋の光として今もその輝きを失わず今日に伝えられている。

 湖北省武漢の長江河岸にある黄鶴楼は湖南省岳陽の洞庭湖のほとりの岳陽楼と並び称せられるが、江西省南昌の贛江の河畔も決して引けをとらず華やかな滕王閣を擁している。妍を競い合う三つの楼閣は「江南の三大名楼」と並び称されている。それぞれ土地にはひとしく激動の歴史と、不朽の文学があり、「歴史と文化の地」としての名を確立し、後世の典範となった。滕王はもともと粋人として知られた貴族で、唐の高祖李淵の22人目の息子、唐の太宗李世民の弟である。もと徐州の刺史であったが、都督として洪州の南昌に派遣された。これに不服を持った彼は、蘇州から呼び寄せた歌舞団の舞台を一日中楽しんだりした。あるとき、取り巻きの一人がつまらない進言したため、贛江のほとりの丘に美しい景色と踊り子の踊りを見ることのできる滕王閣が建てられた。その年は唐朝の永徽4年、西暦654年、今を遡ると1337年の、岳陽楼建設よりより63年前のことであった。

 滕王閣はたしか西暦654年、唐の永徽4年に唐太宗の弟、滕王李元嬰が洪州の都督を務めるとき建てられました。最初は2階までもいかなかったが現在は6階、その後火災により焼失し、現存の滕王閣にいたるまで、26回も焼失と再建を繰り返し、現在は27回、いや、28回目の再建となります。今の建物は宋朝の構造を模倣したもので、宋朝の滕王閣を再現したものです。この建物をご覧になればわかるように、構造、色彩、壁画、灯篭は全部宋朝の様式です。

 史書よると、滕王李元は、実は酒色を好み、悪評の絶えない不良貴族であったが、滕王楼の千古不易の名声によって彼も名を後世に留めることになったのである。だが滕王閣の名はちょうど黄鶴楼や岳陽楼と同様に、やはり詩人王勃の優れた序文のおかげで世に広まったのであった。しかし王勃はこの序文を書いた年に南方の実家に帰省する長旅の途中で川に落ち、その時の恐怖がもとで翌年寝たきりになり、28歳の若さでこの世を去った。一方歌や踊りに興じ、女色を好んだ李元嬰は、相変わらず毎日踊りを鑑賞しながら過ごした。こうして滕王閣は後に歌や踊りを見せる舞台を備えた酒楼になったのである。

歴史は加速度を増して変化し、そこに刻まれた軌跡も間隔をせばめて繰り返すようになってきている。「江南三大名楼」もまるで古い制服に刺繍された校章のように、もはやせいぜいのところかつての栄光を表す印にしかすぎない。老いて容色の衰えた中国は新しい制服に着替えようと努力しているが、まだ迷いと戸惑いの中にいる。なぜなら新しい制服にどのような栄えある校章を刺繍すべきか、その新しい制服がどこにあるのかまだ分からないのだから。