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                                     1996.2.7 
              翻 訳 の 危 険 性

0.はじめに
 異文化間コミュニケーションはただでさえリスクにさらされながら進行している。
社会文化や習慣、発想の違いなどいろいろな要素があげられる。コミュニケーション
しようとする両者が互いの言語を解さない場合には翻訳が行われることになるのだが、
翻訳行為自体のもたらすコミュニケーション・リスクも無視できない。
 おそらく、あらゆるコミュニケーション行為にリスクはつきものであろうけれど、
翻訳(口頭翻訳−通訳−を含む)という作業を通してその危険性は更にはっきりしてく
る。翻訳をしなければ見過ごしてしまいがちな、言語表現、受容と解釈、情報伝達
の問題がより具体的なかたちで観察できるのではないだろうか。
 われわれが「翻訳」した結果は、われわれはそのように「理解」した、ということ
に他ならない。“如是我聞”−かくの如く我聞けり−である。翻訳は翻訳者という媒
介があってはじめて成立するコミュニケーションであって、受信者は一度フィルター
を通した情報を受け取ることしかできない。
 翻訳のリスクとは何か、そして翻訳者はどのような方策でリスクを軽減させようと
試みるのか、またそのために必要な技能とは何か。発信者と受信者の二者間では、存
在していても見えてこないコミュニケーション・リスクを、翻訳者(媒介者)の視点
から考察したい。まず最初に二言語三者間のごく単純化したコミュニケーション・モ
デルを提示する。

==図1==
             → ・2.媒介者 ・・・→            
   1.SL 発信者  → ・ DECODE     ・→  3.TL受信者   
   MESSAGE         → ・  --MESSAGE    ・→  DECODE       
      ----ENCODE  → ・    --ENCODE・→    ---MESSAGE   
             → ・・・・・・・・・・→            

1.発信者の問題
 ある概念が発信者の頭の中に浮かぶ→概念を言語記号へ変換する→音声や文字の形
式によって表出する、という過程をたどって概念は表現となる。このとき、発信者の
概念と表現が完全に一致している場合は、この過程でのリスクは生じないことになる。
 しかし、概念に明確な言語記号が与えられない場合はどうか。発信者の頭の中にあ
っても具体的な表現にならない概念も非常に多い。我々が文章を書き、ことばを話す
ときに常にもどかしく感じるのは「うまく言えない」ことだ。これは、幾つかに区別
して考えなくてはならないだろう。

1.1.概念自体がボヤけている場合
 例えば誰かの発言を聞いて違和感を抱き、「それは違う」と思う。どう違うのか、
自分はどう思うのか、はっきりしない。概念自体が形を成していないのだから、言語
表現として表れてこない。あるいは概念以前の、言語化できない感覚なのかもしれな
い。
 翻訳者の言語媒介機能は発信者の頭のなかに生じた概念によって表出された言語記
号を変換して受信者に伝達することである。とすれば、そもそも言語にならなかった
概念は変換の対象ではない。発信者の非言語表現(表情など)を読み取り、それを言
語化して伝達することは(口頭翻訳であれば)全く考えられないことではないが、こ
れを翻訳と呼ぶには無理がある(後述4、翻訳者と解説者を参照)。

1.2.言語による制約
 各国の論者によって繰り返されてきた大きな問題点は、それぞれの個別言語に限界
があるということである(1) 。発信者の思想内容そのものが個別言語によって規定さ
れ、完全に自由な思考はできない。日本語を使うから日本人の発想になるという考え
方である。これを1.1 と関連付けて言えば、もしも日本語でなければボヤけずにすむ
概念もある、あるいは曖昧にせずにはっきり言えることもある、ということになる。
また、明確な表現を特に尊重しない社会のなかでは、全てをあけすけに表現しつくす
ことへの抵抗もある。これは後述の翻訳者にとっての解釈のリスクに直結する。ある
個別の言語文化の制約のなかでは表現しきれないことを別の個別言語に転換すること
で起点言語の限界を超える可能性もまた指摘されているところである。この観点から
言えば、リスクを逆手に取って、翻訳によって新しい言語と思想の形を生み出し、言
語の地平を広げることも期待される。
 一方、何を言うかが明確であっても、どのように言うかが文化の制約を受ける場合
もある。概念に忠実な直接的表現を避けるための、いわゆる「紋切型」の定型表現が
豊富に用意されているのは不幸中の幸いである。だが、これらの定型表現や慣用表現
が、必ずしも発信者の真の意図に沿うかどうかは別問題である。

1.3.言語表現の難易度
 当然のことながら言語表現技術の水準が低ければ、翻訳者の感受性を十分に活性化
できず、コミュニケーション・リスクも大きくなる。文字の形の善し悪しや発音・発
声から始まって、文章の組み立て・演説の技巧にいたるまで全ての表現技術が含まれ
る。また、見ずらいコピー・囁くような小声、読めない崩し字や悪筆・強い訛り等も
程度の差こそあれコミュニケーションのノイズとなる。これらはメッセージ内容とは
関連しない。
[文構造のわかりにくさ]
 言語として認知可能なメッセージを受け取った後は、発信者と翻訳者の両方に責任
のある問題になる。一般に、機械翻訳で良好な結果が得られる種類の起点言語テクス
ト、例えば専門的な科学技術分野の論文等は人間の翻訳者にとっても訳しやすいテク
ストであると考えてよい。逆に、非論理的(時に非文法的)なものや文構造の複雑な
テクストの場合は翻訳者に理解されにくく、リスクが生じる。理解しにくい文構造の
例として「中央埋め込み構造」の例文を次に引用する(大津由紀雄編・『認知心理学』
3言語,1995)。

a.黒い犬がグレーのねずみが黄色の蛇が白い猫がかわいいと感じたのを知っている
と思った。
この文は次の英文の語順通りの直訳である。
b.The black dog thinks that the gray mouse knows that the yellow snake 
    felt that the white cat is pretty.
英語に較べて日本語は非常に理解しにくくなっている。理解しにくい原因は二つの文
を次のように比較すると明らかになる。
                
==図2==
1黒い犬が        7思った。   The black dog           
                          thinks         
 2グレーのねずみが    6知っていると   the gray mouse       
                             knows       
 3黄色の蛇が       5感じたのを      yellow snake      
                               felt      
 4白い猫がかわいいと              the white cat is pretty.


前頁の文は、次のようにすれば理解はずっと容易になる。
c.白い猫がかわいいと黄色の蛇が感じたのをグレーのねずみが知っていると黒い犬
が思った。−−−

[論理の飛躍によるわかりにくさ]
「フランスでの生活は、非常に快適であった。風邪をひいても、立場上休めない」。
これは心理学の実験用に作られた論理の飛躍した文である。二つ目の文の最初に(し
かし、いまはフランス駐在から本社に戻って部長に昇進したわけだから)と補えば意
味がわかるようになる。この種の表現は、新聞記事でも目立って多く見られるように
なった。1996年2月2日付『朝日新聞』に掲載された村山社民党党首の談話として
「(新党結成準備のためには)できるだけ先に送らないといけないと思っているが、
(衆院解散・総選挙の時期は)これはどうなるかわからない」
という文があった。
( )書きの内容がなければ意味が通じ難い。
[枠組み不明によるわかりにくさ]
 さて、それでは次にあげるような例はどうだろう。複雑な構造も難解な語彙もなく
省略も論理の飛躍も見あたらない。だが何が言いたいのかは非常に分かりにくい(池
田・村田『こころと社会』,1991)。

−−−その手順はまったく簡単です。まずものをいくつかの山にわけます。もちろん
その全体量によっては、一山で十分でしょう。もし次の段階に必要な設備がないため
どこか他の場所に移動する場合を除いては、準備完了です。一度に沢山やりすぎない
ようにすることが大切です。沢山にしすぎるより、少なすぎるほうがましです。……
中略……近い将来にこの作業の必要性がなくなると予見することは困難です。いえ、
なくなると言える人はいないでしょう。その手順が完了したら、それらをいくつかの
山にまた分けます。それから、それぞれ適切な場所におかれます。そしてそれらはも
う一度使われ、またこの全サイクルがくりかえされるのです。ともかく、それは生活
の一部なのです。(久原恵子,1980「知識獲得のための読みの促進,波多野誼余夫
(編)自己学習能力を育てる−学校の新しい役割」より)−−−


 この文章の内容理解が難しい理由は、枠組みを設定していないことにある。個々の
語句を積み上げていくボトム・アップ方式の情報処理では対処しきれない問題がある。
これをトップ・ダウン方式によって理解すれば、全体を既有の枠組みに帰属させる
ことによって見違えるほど理解しやすくなるはずである。この文章の場合は「衣類の
洗濯」という枠組み知識(スキーマ)を与えることによって理解が促進される。
 ここで予想される反論は、このような簡単な単語ばかりの単純な構造の文章であれ
ば、内容理解などなしに外国語に翻訳できるではないか、という意見だ。確かに一見
では可能なように感じられるかもしれない。だが実際に翻訳しようとすると、「いく
つかの山にわける」という部分ですぐにひっかかってしまう。その「もの」が数えら
れるかどうか、性の区別はどうなのか、によって[山」、「分ける」等の語の訳しか
たが変わってくる言語もある。「もう一度使われる」というのもどのように使われる
のかで異なる訳し方を選択しなければならない。そういった問題が「衣類の洗濯」と
いうテーマを得ることによって一挙に解決するわけである。
 但し、この文章の翻訳ということを考える場合、内容理解とは別の問題もある。例
えば発信者が最後に種明かしをするつもりで故意に分かりにくくしている場合である。
その時は翻訳者も発信者の意図を尊重しなければならないが、翻訳者は発信者と受
信者のコミュニケーションをつなぐ媒介、つまり双方にとって第二の自己であるから、
翻訳者にはメッセージの全体像が伝わっていなければやはり翻訳はできない。

1.4.非言語表現による支援が可能
 前述では、発信段階で、概念の表出がすでに大なり小なりリスクを負っていること
を述べた。このリスクを軽減するために、発信者は言語形式以外の手段をもって言語
表現を補うことができる。音声言語表現であれば、スライドやビデオの上映や図表な
ど視覚効果のある補助資料を用いることや、顔の表情や手振り身振りあるいは服装・
持ち物などの非言語情報や、声の高低・強弱、話の速度などのパラ言語情報が受信者
に作用するだろう。文字言語表現では考えうるものとして、音声資料の併用の他、対
談記事に多用される(笑)などの記述、またパソコン通信でしばしば見られるフェイ
ス・マーク(^-^)(*^。^;)などがこの例であろう(フェイス・マークの一つめは笑い顔、
二つめは頬を赤くして恥ずかしがりついでに汗をかいて照れている顔)。翻訳の際
にこれらを直接目標言語のなかに持ち込むことはできないが、ことばのモダリティの
選択においては参考となる。

2.翻訳者の受信と理解の問題
 様々なリスクをおかしながら、また非言語手段によってそれを補いながら、発信者
が概念を記号化して表出した後、翻訳者が受信・理解する段階でもリスクがある。

2.1. 認知可能であることが優先
 発信者が、相当な苦労をして(あるいは全く気軽に)表現した記号が翻訳者にとっ
て認知不可能なものであれば、言語コミュニケーションの道筋はここで途絶えること
になり、翻訳者もその役割を果たすことができない。例えば同時通訳の時に、電気系
統の故障のためにヘッドフォンに音声が入ってこないような場合がこれにあたる。あ
るいは発信者が翻訳を依頼するためにコンピュータ通信を使って電子メールで原文を
送信した結果「文字化け」(文字が記号の羅列に変化してしまうこと)を起こしてい
れば、翻訳者には認知不可能である。以上2例は発信者自体とは無関係で、しかも
100 %認知不可能な特殊な事例である。認知不可能である場合翻訳者に責任はない。

2.2.  翻訳者の能力によるリスク
 一般的に、まったく認知不可能な起点言語テクストはまれである。より実際的な問
題として、翻訳者の能力について述べなければならないだろう。いかなる翻訳も適切
な翻訳者を得られるかどうかに大きく影響される。林語堂は次のように述べている。
(林語堂『翻訳を論ず』1932)

−−−翻訳を論ずる際にはっきりと意識しなければならないのは、翻訳は一種の芸術
であるということだ。芸術の成功はおよそ個人の芸術的才能と、その芸術の分野で精
進を積んだことに依存する。その他に芸術を成功させる近道はない。もともと芸術に
うまくいく秘訣などあるわけはない。翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の原文の
字句と内容に対する徹底的な理解、第二に翻訳者の非常に高度な母語の運用力、つま
り達意の中国文を書く能力、第三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻訳の基準と処
理の方法について正確な見解があること、である。この三者を除いて翻訳にはいかな
る規範も存在しない」−−− 

発信者と受信者をつなぐ媒介の性能が低ければ、それだけ伝達効率が悪くなるのは自
明の理である。第一に挙げられた原文の字句と内容を理解する能力が不足な場合は、
起点言語の情報の一部が欠落したり、上位概念の語彙に置き換えられたりする、ある
いは誤訳が生まれる(第二の母語運用力と第三の翻訳の技術力に関しては後述3.お
よび4.を参照されたい)。
 「原文の字句と内容」に対する理解は「言語知識」と「言語外知識」の両方に依存
している。語彙、文法的知識、言語自体の発想法、論述の進行方法、多用される慣用
表現・ことわざや格言、メタファーやレトリックの知識、ことばのタブー、俗語・流
行語、方言と訛り、等が「言語知識」に属する内容である。一方、「言語外知識」は
いわゆる一般常識を中心にする社会的・文化的な知識と、訳出対象テクストの扱う話
題および発信者固有の特徴に関する知識を含む。したがって、いずれかひとつの能力
でも翻訳者に欠けているものがあれば、それは起点言語の理解に悪影響を及ぼすリス
クとなる。
 林語堂は、翻訳は個人の才能にたよる仕事であると述べているが、最近ではワーク
ショップ形式による翻訳も多い。このような場合、ときには起点言語のネイティブ・
スピーカーの協力により、起点言語に対する解説などを受けてリスクを軽減する方策
も採られている。だが当然のことながら、協力者たるネイティブ・スピーカーの言語
知識と言語外知識の水準に影響されることになり、たとえ協力者があったとしても完
全に起点言語テクストを理解することは難しい。翻訳者の能力の問題は次にあげる解
釈の問題に重なってくる。

2.3  解釈にともなうリスク
 日本語と日本人の話し方の特徴として、「あいまいさ」ということがよく言われる。
「あいまいさ」は発信された言語表現の問題でもあるが、発信者がそれを意識的に
行う場合は第1項で述べた内容とは異なり、翻訳者の解釈の問題として考えなければ
ならない。次に意識的にあいまいに話している例を引用しよう。(『会議通訳者への
道』)

−−おもしろい例として、“とにかく難解「国会語」”というタイトルで、昭和50年
10月17日付『朝日新聞』に青島幸男議員の記事が載っていますので一部を紹介してみ
ます。  「国会答弁のなかで、最もしばしば使われる常套句を、青島議員の七年間
の体験から“翻訳”してみるとこうなる。『ご主旨を体して前向きに努力するにやぶ
さかではありません』(気持ちはよくわかるが、できない)、『研究してみます』
(やらない)、『私なりに最善の努力をしてみます』(おそらくだめだろう)、『ご
意見はご意見として承っておきます』(そっちはそういうが、こっちはそうはいかな
い)、『なお研究を続けてまいりたいと存じます』(そのうちそちらも忘れるし、落
選するかもしれない)−−−

 発信された表現が様々な意味・意図に解釈され得るとき、翻訳者は発信者からその
解釈を委ねられているということになる。一言語二者間のコミュニケーションであれ
ば、解釈は受信者の頭のなかで行われるだけであるから、発信者の意図を確認したり
自分独自の解釈に基づいて行動したりしなければリスクは目に見えてこない。だが、
そこに媒介者たる翻訳者が存在し、別の言語で表現しなおすと発信の意図と解釈のず
れが言語記号として明らかに具体化する。しかも受信者は目標言語の表現を発信者の
表現として受容することになるため、解釈のリスクは翻訳者に帰することになりがち
である。
 interpretationとtranslation は元々理解し解釈し言い換えること、「翻訳」はひ
っくり返して向きを変え、別のことばで言うことである。だが翻訳者は中間に存在す
る媒介、つまり一種のinterface として機能するのであって、converter ではないの
だから受信者に提供する前に解釈しすぎて原文の意図を変えるリスクを冒そうとはし
ない。このリスクを回避するために、結果として受信者に対して提供するメッセージ
も曖昧模糊とした多義的なものにならざるをえず、曖昧模糊としたメッセージを許容
する度合いの低い文化を持つ受信者に不審を抱かせるというリスクも同時に負うこと
になる。そしてその不審感が翻訳者に向けられることもむしろ少なくない。
 この他に、非常に具体的な解釈のリスクとしては、日→英翻訳における単数と複数
の判断、英・日→中翻訳での親族呼称(例えば日英語では「いとこ」cousinと言って
いるものを、中訳では母方・父方・男女性別・自分より年長か年下かで八通りに訳し
わける必要がある)を選択する際に問題が出てくる。

2.4.優先順位判断のリスク
 翻訳の「忠実さ」「わかりやすさ」「ことばの美しさ」の三基準(2) のうち、何を
優先させるべきかを判断する際にも翻訳者はリスクを負わなければならない。どれか
ひとつを優先させることで他が犠牲になるということではないが、全てを完璧に満た
す翻訳は非常に困難である。例えばことばの音や文字は確実に犠牲になるのだから、
「東大強要学部」(学内の立て看板より)といった言葉遊びを異なる言語体系のなか
で完全に再現することはできない。そこで、翻訳者は発信者の意図と個々のテクスト
・タイプを判断してその優先順位を決めていくことになる。以下に両極端の例をあげ
てみよう。
 科学技術テクストの場合は、明確に定義された専門用語を適切にコード変換するこ
とが重要である。次の文を翻訳する場合、わかりやすさや言葉の美しさは考慮の外で
ある。
例)「PLCすなわちシーケンサはシーケンス制御専用マイコンです。制御内容はプ
ログラムとしてメモリに格納され、モジュール交換により簡単に制御仕様の変更や修
正に対応できます。」(シーケンサ解説資料より)
 この文は人間が訳す場合でも機械翻訳システムでも、コンピュータ専門用語の置き
換えが適切に行われれば、ほぼ問題なく訳出でき、コミュニケーション・リスクは極
めて少ない。これに比較して文学テクスト、特に詩歌の翻訳は起点言語のもつ意義や
内容を目標言語で完全に再現することが難しいため、いずれの基準を優先させるかが
問題になる(3) 。
 詩歌など音の美しさが重要な要素である文学テクストの場合、国際会議の通訳では
リスク回避の手段として、発表者に先に作品の内容を概説的に説明してもらい、それ
を目標言語に通訳し、つぎに通訳なしで作品の朗読を聴衆にきいてもらうという方法
を採用することがある。

==図3== テクスト・タイプによる優先基準判断の例

                忠実さ                   

             科学技術テクスト
                 ・                    
              一般テクスト 
                 ・    文学テクスト
 わかりやすさ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表現の美しさ

3.翻訳者の言語変換と訳出の問題

3.1.目標言語への転換の難易度
 ある言語表現を二つの側面から考えてみる。一つは記号として使用している個別言
語の資源をどの程度まで利用しているかという問題、もう一つはその言語表現が個別
言語の持つ社会文化にどの程度まで依存しているかという問題である。
例えば最も程度の低いもののひとつとして「化学元素表」等がある(下図のA点)。
逆に最も程度が高い例としては、詩語や古典落語が考えられる(下図のE点)。

==図4==  ↑  
        文・・・・・・・・・・E:文学・ 芸術  
        化・・・・・・・・D:宣伝広告 ・
        依・・・・・・C:新聞記事 ・ ・
        存・・・・B:国際経済 ・ ・ ・
        度・A:科学技術テクスト・ ・ ・
         ・・・・・・・・・・・・・・・・
         ・  言語資源の利用度→

 ごく大雑把にテクスト・タイプを例示したが、もちろん個々のテクストによって変
化はある。ここでは面積が大きなものほど訳しにくいという原則だけを提示しておく。

3.2.訳語と文体の選択
 テクスト全体の意図を理解したところで、それに相応しい目標言語の訳語と文体を
決定することになる。翻訳の三基準のうち、第二の目標言語の運用力が不足な場合は、
適切な訳語を選択できず受信者の理解に影響を与える、あるいは起点言語の格調と
不一致なスタイルで訳出してしまい、テクスト自体の印象を変化させる。
 例えば、訳語レベルで言うとスピーチ冒頭の呼び掛けのことばには、「ご来賓の皆
様」(レセプション)、「ご出席の皆様」(一般会議)、「兄弟諸君!」(某国際労
組の習慣的呼び掛け)などのバラエティがある。正式な会議の席で「紳士淑女の皆様
方」などという見当違いの訳語をあてることはできない。
 口頭翻訳でもformalからcasualまで様々な場面があるが、特に文章の翻訳は文体が
問題にされやすい。どのように翻訳の文体を決定するのかについては、明確な基準を
求めることはできない。これについて前述の林語堂の意見では、「自ずから表れでる
声を聞け」ということになる。以下にその部分を引用する。(前出『翻訳を論ず』)

−−(翻訳の文章を生み出す際には)表出すべきまとまったイメージ(total 
concept )が翻訳者の脳裏に存在していることが必要である。読みやすい文章を書く
には、先にまとまった概念があり、その後に概念にあわせて語を選び組み合わせるこ
とが重要だ。最初にひとつひとつの語があり、それを組み合わせて句にしようとする
から失敗する。良い文章を書くときには恰もその文章の音の響きが聞こえるかのよう
に全体の概念が浮かび(auto dictation)、それが即興の演奏のように自ずから現れ
出る(extemporizing )と言う。語から考えはじめて句を作ろうとするから、いくら
推敲しても不安が残るのである。−− 

 ことばの音や響きに注意するという主張は、ロバート・ブライの「詩の翻訳の八段
階」のSTEP6 にも見られる(4) 。
次にごく卑近な例として最近の宣伝コピーの翻訳のヒット作をひとつあげてみよう。

−−「INTEL,INSIDE」の日本語訳「インテル,ハイッテル」−−

 これはインテル社製のコンピュータ部品が中央処理装置の内部に使用されている、
ということを一言で表現した宣伝文句である。これを「インテル,内側」とか、「イ
ンテルが中にある」、「中にはインテルが」等と翻訳していたら宣伝効果は望めない。
英語で「IN」と頭韻を踏ませているのを、日本語では「テル」(テイル)によって
脚韻を踏ませ、また英語の「INSIDE」の発音と音節やアクセントも類似した
ものになっている。「INSIDE」と「ハイッテル」は辞書的な定義においては等
価物ではないが、原語の意図・伝達内容・形式への忠実さ、表現としてのわかりやす
さと、宣伝文句としての完成度の三基準をかなりの程度まで満たした例である。

3.3.翻訳技術の問題
 翻訳をするために必要な資質について最も一般的な見解は、起点言語能力と目標言
語能力を十分に有し、しかも両方の文化を身に付けていなければならないということ
である。
 メアリー・スネル=ホーンビーは、その著書Translation Studies で次のように述
べている。

 “ If language is an integral part of culture, the translator  needs not  
   only  proficiency in two languages , he must also be at home in two  
cultures. In other words, he must be bilingual and bicultural.”  

 “bilingual and bicultural”であれば翻訳ができるか、と尋ねられればそうでは
ないとしか言えない。事実上、高い知識と教養を身につけ、両国の文化に通じた二言
語使用者(バイリンガル)が翻訳者として優秀であるとは限らないからである。
 翻訳技術力とは、起点言語と目標言語の間を自由に行き来する切り替えの技術のこ
とを指す。この技術がなければいかに優秀な資質を持っていても速やかで適切な処理
は行われない。特に口頭翻訳においては文字翻訳とはかなり異なる種類の翻訳技術が
要求される。 A言語とB言語の体系の間をジャンプすることが翻訳である。

 ・・・・・・・・・   ・・・・・・・・ A言語とB言語の間に「ことばの壁」
 ・   ● −−・−・−・→ ●   ・ が存在している。A言語体系のある 
 ・       ・ ・ ・      ・ 地点に存在するテクストをB言語体 
 ・       ・ ・ ・      ・ 系のほぼ同じ地点に着地させるために
 ・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・ はこの壁を飛び越さなければならない
 A言語体系        B言語体系    二つの体系に熟知していることと、
   ==図5 AからBへのジャンプ==  ジャンプする技術があることとは、別
                      問題である。読み手から書き手へ、聞
き手から話し手へのダイナミックな転換は、翻訳の修練を積んで身につける一種の職
人芸であるが、この職人芸は高度の語学力と文化水準に裏打ちされていなければなら
ない。
4.解説のリスク
 翻訳者は解説者になることで解釈と訳出のリスクをすべて背負い込むことになる。
 受信者が次のような要求を提示した場合について考えてみよう。

−−今日でも、われわれはよく、「ちょっと手を貸してくれませんか。この老人、あ
の科学者の言っていることを知りたいのです」と言う。明らかに、ここでわれわれが
求めているのは通訳ではなく、誰かわれわれの理解を助けてくれる人、つまり解説者
である。われわれが当てにするのは、老女のぶつぶつ言葉や、低地バヴァリア方言、
科学言語、あるいは中国語を理解する媒介者である。「彼は何と言ったのですか」と
いう問いには、「彼が私に言おうとしていることを教えてください」という要求が含
まれている、われわれは、われわれの相手役であるこの媒介者が、話し手の言葉を一
語一語正確に理解することを期待すらしていない。われわれはただ、彼が理解したこ
とを知りたいだけである。解説についてのこのような理解は、理解したことがらを説
明する能力と結び付いて、話し言葉の基礎をなしている。(イリイチ,サンダース 
丸山真人訳『ABC』民衆の知性のアルファベット化』1994 第四章 翻訳と言語)
−−

 翻訳者は当然自分が理解した範囲内でしか情報を提供できないわけだから、この問
いは合理的に感じられるかもしれない。だが、翻訳者が理解することは言語表現にと
どまらない。発信者は言語以外に様々なメッセージを送っている。人は「コミュニケ
ーションしないことはできない」という考え方もあり、われわれは発信者を一見した
だけで各種のメッセージを受け取ることができる。それらのメッセージは翻訳者に解
釈されて初めてコミュニケーション的な意味を持つものとなる。翻訳者の解釈によっ
て再生産された言語記号が受信者に受容され、さらに受信者の解釈によって新たに意
味を賦与される。
 発信者の頭のなかに最初に浮かんだ概念が二度の記号化を経て受信者の頭のなかで
概念化される場合、コミュニケーション・リスクを最小限にとどめるためには、翻訳
者は言語記号および非言語記号の解釈をなるべく狭い範囲で行うほうが望ましいので
はないか。それが、発信者と受信者に忠実であるということにはならないか。ならば、
ここで受信者が「媒介者が理解したことは何か」と尋ねているこの問いは「彼が私
に言おうとしていることを教えてください」という要求を代表できるものだろうか。
例えば次のような実例を見てみよう(永田,『通訳理論研究』8号,1995)。

−−セミナーの通訳業務。数十人の聴衆は全員中小企業の社長。会議の主催者から
「皆さんは分からないことがあっても質問しないから、適当に解説を付けて通訳して
くれ」と頼まれた。最後には社長さんたちが互いにブツブツと話していることに聞き
耳をたてて、質問したいらしいことを察してゲスト・スピーカーに伝えて説明しても
らうということをした。ここでは通訳者の役割がかなり拡大されている。
 「よくわかった。雰囲気もよかった」と言われたが、そこまで期待されたくない、
と少し腹が立った。話し手と聞き手のよりよいコミュニケーションまで考えてしまう
と、言語通訳機械ではすまなくなる。「通訳のよしあしで会議のムードがまったく変
わる」とは、よく言われるが、これはむしろ「コミュニケーション・コーディネイタ
ー」ではないだろうか。
 通訳者は実際の現場ではコミュニケーションを成立させるために増幅・補償の機能
を発揮することまで期待されてしまう。−−−                 

 コミュニケーション支援者としての、翻訳者への役割期待がある場合、翻訳者は解
説者として発信内容の増幅や補償を行い、受信者に受け入れやすい記号表現を選択す
ることになる。すると発信者に対する忠実さはより低いものとならざるを得ない。コ
ミュニケーションを支援するための行為が同時に翻訳者のリスクになる。
5.受信者の問題
 受信者を念頭におかない翻訳は無意味である。受信者が異なれば翻訳の結果に対す
る評価もまったく違ってくる。メッセージの発信から訳出終了までの段階で何も問題
がおこらず、順調に記号化と解読、そして再度の記号化が行われ、メッセージの変質
もなく、発信者の言いたいことが忠実に保持されてきたとしても、受信者に受け入れ
の準備がなければ最終的には訳さなかったのと同じになってしまう。
 前述の翻訳の三基準のうち「わかりやすさ」と「ことばの美しさ」は、翻訳者だけ
が決定できるものではなく、受信者の評価があってはじめて成立する概念である。テ
クストは受容されることによってはじめて生命を与えられるものだから、翻訳者が受
信者の特徴に従って訳出の方針を決定することが重要なのは言うまでもないが、受信
者にもそのテクストを受容できるだけの能力が備わっていなければならない。
 受信者にそのテクストを咀嚼するだけの能力がない状況において、翻訳の善し悪し
を評価することがあれば、それは翻訳者にとって不公平であると言わざるを得ない。
 よい翻訳は良い読者を得て完成する。

6.おわりに

[メッセージの伝達と翻訳]
 受信者が発信者から受け取った記号表現を解読して、発信者のメッセージを正確に
再現するためには、起点言語から目標言語へ転換するという行為はコミュニケーショ
ンの側面から見れば決して望ましいことではない。ただでさえ効果的に伝達できるか
どうかが危ぶまれるメッセージを第三者である翻訳者に託さなければならないのだか
ら、そのリスクは相当なものに思える。伝言ゲームで人数が多ければ多いほどメッセ
ージが変質してゆくように、コミュニケーション論的な考え方からいえば、メッセー
ジの原形を保つためには中間にある媒介は少なければ少ないほどよいはずなのだ。

[コミュニケーション支援のための翻訳]
 とはいえ、互いにことばの通じない両者にとって、翻訳者の存在は不可欠である。
リスクを嫌って翻訳を排除すれば交流の機会は断たれることになる。翻訳者は両者の
コミュニケーションを支援するために、解説者となるかもしれない。ときには解説が
逆効果となるが、場合によってはこのリスクをおかすことでよりよい効果が得られる
こともある。

[完全言語を志向するテクストは翻訳を要求する]
 しかし、これとは逆の考え方がある。多くの媒介者の手を経ることによって、もと
もとは不完全であった起点言語が、ますます完全なものへ成熟してゆくというもので
ある。 翻訳を通じて完全な言語に近づいてゆくテクストは、もともとその内側に完
全言語を志向する種子を持っていなければならない。だが、媒介者の手を通ることで
種子が死んでしまう危険性もあるのだから、異なる言語へ翻訳をする媒介者はその種
子を育てる意識と能力を有していなければならない。完全言語を志向する種子は翻訳
者の選択というリスクにさらされてもいる。

[翻訳は投資に似ている]
 翻訳とリスクの問題を、投資にたとえてみよう。元本保証(等価交換可能)の投資
商品(テクスト・タイプ)であればリスク(メッセージの変質)も少なく、投資技術
(翻訳技術)の低い投資家(翻訳者)でも安心して投資(翻訳)することができる。
その反面、いくら豊富な資金(言語知識と言語外知識)があっても、元々の金利(自
由裁量の程度)が低いので、投資収益(翻訳の波及効果)も小さい。
 逆にハイリスクの(翻訳の難度が高い)投資商品の場合、資金不足では購入できな
い(能力不足で内容を理解できない)ことが多く、研究熱心で経験を積んだ投資家で
ないと失敗する可能性が大きい。だが一般にハイリスク商品はハイリターンである場
合が多く、ことによれば思いもかけない収益(例えば、聖書の翻訳によって一国の言
語に変革が起きるような効果)をもたらすこともある。いずれにしても、旺盛過ぎる
冒険心と資金不足によって痛手をこうむることにならないように、まず最初に投資の
目的を明らかにして、次にそれぞれの投資商品の特徴をつかまなければならない。資
金不足で投資をあきらめることもあるだろう。

[翻訳は翻訳者だけの問題ではない]
 翻訳の完成は発信者・媒介者・受信者の三者による共同の事業であることを最終的
な結論としたい。翻訳によるリスクを回避するためには、三者が共に翻訳には様々な
リスクがともなうことを理解しなければならない。発信者はいかなる内容、いかなる
形式であっても完全に翻訳ができると思ってはならないし、媒介者は翻訳の限界を意
識しながら、周囲の環境に照らして最良の方法を決定する義務を持ち、受信者は起点
言語のテクストの種類にかかわらず、すらすら分かることだけを期待してはならない。
 三者によるリスク分担と協力があってこそ、より良い翻訳が可能となる。
                                   以上 
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注:

(1) 個別言語の限界、翻訳による言語の地平の拡大、および純粋言語への志向
@魯迅:訳本というものは単に新しい内容を輸入するばかりでなく、新しい表現法を
も輸入するものです。中国の文章あるいは言葉は、その法則が実際あまりに不精密で
す。……この語法の不精密ということは、思考の筋道が精密でないことを証明してい
ます。言葉を変えて言えば、頭がボヤけているということです。もし永遠にこのボヤ
けた言葉を使い続ければ、文章を読んで大変すらすらと読めたような気がしても、結
局残るのはボヤけた影であります。この病気を直すために私はひたすら苦くて異様な
句法を詰め込んでいく。古いものでも方言でも外国のものでもです。いつかそれが自
分自身のものになるのです。これは決して空想ではありません。例えば日本では、す
でに欧米化した文法がきわめて普通になりました。梁啓超が『和文漢読法』(中国人
のための日本語学習用教本)を書いた時代の文章と今の日本語はまったく違っていま
す。(『二心集』1931) 
A瞿秋白:中国語にはきめ細やかな区別をするための豊富な形容詞や動詞もなく、複
雑な関係を明確にするための前置詞や関係詞などがない、未だに身振り言語の域を脱
していません。……ヨーロッパではルネッサンスの時代と啓蒙運動の時期に、日本は
明治維新の時に、翻訳による国語の改革を完了しております。(『二心集』1931)
Bハイデガー:「問う人:たしかに。かれは問題になったことをヨーロッパの各国語
で話すことができました。しかし、われわれが論じ合ったのは「いき」のことでした
。そのとき、日本の言語精神はついにわたしには閉ざされたままでした。そしてその
状態は今につづいております。/日本の人:対話に使われた諸国語が、すべてをヨー
ロッパ的な倉庫の中のものにしてしまったのですね。/問う人:それでいて、その対
話は「東アジア」の芸術と文芸の本質的なものを言おう(sagen )と試みたのでした。
/日本の人:それで、あなたがどういう点に危険をかぎつけたかが、わかりました。
会話に用いられた言語が、論じられたことを言い表す可能性をたえずこわしたので
すね。/問う人:以前、私はずいぶん不器用な言い方ですが、ことばを存在の家と呼
んだことがあります。人間が、その用いることばを通じて存在の養成のなかに住んで
いるとするなら、われわれヨーロッパ人は、おそらく東アジアの人とはまったく別の
家に住んでいるのでしょう。その場合、家から家への対話はほとんど可能になること
はありますまい」(『ことばについての対話』)
Cベンヤミン:「翻訳において純粋言語の種子を成熟させるというこの課題」、「(
原作と翻訳は)ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにする」、「真
の翻訳は純粋言語を、翻訳の固有の媒体である翻訳言語によって補強され増幅された
分だけ、原作の上になげかける」(『翻訳者の課題』)

(2) 翻訳の三基準
@厳復:翻訳をするうえで難しいことは、信達雅−−偽らぬこと、意を尽くすこと、
文章表現が優雅であること−−の三つである。…中略…易経に曰く、修辞は忠誠であ
るべきである。孔子曰く、文章は十分意を尽くす事が大事だ。だが、表現が美しくな
ければ、広く行き渡ることはない。この三者は文章を書くための正しい道筋であり、
翻訳された文章にとっても、最も望ましい姿でもある。(『天演論・訳例言』)
A林語堂:翻訳の三基準の第一は「忠実」、第二は「通順」(わかりやすさ)、第三
は「美」であるが、これは厳復の「信・達・雅」とほぼ同じことを指している。(『
翻訳を論ず』)

(3) 文学翻訳に対するふたつの見解
@吉川幸次郎:「翻訳というものは、要するに方便であり、童蒙に示すためのもの」
「同じく方便であるならば、原文のもつだけの観念をより多からずまたより少なから
ず伝える方が、童蒙にはむしろ便利」、「日本の読者に対する過度の関心は、却って
日本の学問の能力をそこなうおそれなきに非ず」(「洛中書問」)
A大山定一:翻訳が作品の内容を多からず少なからず正直に伝えるだけのものならば、
所詮通弁の取るに足らぬ仕事、文学の翻訳は「今日当然書かれていなければならぬ
文学作品を、言わば翻訳という形で示した」翻訳文学。(「洛中書問」)

(4) ロバート・ブライの詩の翻訳の八段階
STEP1:言葉、文字通りの写し替え、Aという国語からBという国語に写し替える。
    一語一語を別の国語にそのまま写し替えてみる。
STEP2:文字通りに訳しただけでは物足りない場合社会文化の慣習の違いを起点言語
  を母語にしている人に聞いて確かめる。ここで、あまりAとBという二つの文化
  のあいだの差異がはなはだしければ、翻訳をあきらめる。
STEP3:目標言語の性質を考える。各国語には何百年もの過去の歴史がある。
    翻訳者の個人的な意思で勝手に語順を変える訳にはいかない。
    起点言語に対して不忠実であることが目標言語に忠実であるなら躊躇なしに
    目標言語に忠実な訳にする。
STEP4:生きた口語のエネルギーを訳詩のなかに入れて、そして生命あるものに変え
   ていくプロセスが必要。偉大な詩は二十年ごとぐらいに訳し替えるべき。
   これは決して理性によるものではなく、耳と耳の記憶によるものだ。
STEP5:詩のトーンを考える。詩のムードを的確につかまえることに成功するために
    は翻訳者は詩を書いた人でなければならない。つまり創作家の力が必要だ。
STEP6:音に注意する。音のエネルギーには2種類あって、一つは耳の中にあるもの
  だが、もう一つは筋肉のシステムのなかにある。ボディ・リズム、ロッキング・
  モーションという筋肉のなかにある音を聞く。
STEP7:もう一回ネイティブ・スピーカーに訳をチェックしてもらう。
STEP8:最終的な微調整。他人が同じ詩を訳していれば、どのように訳しているのか
  を調べる。
(以上、加島祥造+志村正雄『翻訳再入門』エッセイと対談1992を参考にまとめた)
参考文献

[翻訳論]
ヤコブソン                  『一般言語学』「翻訳の言語学的側面について」
コセリウ          『ことばと人間』「翻訳論における誤った設問と正しい設問」
ナイダ,テーバー,ブラネン  『翻訳−理論と実際』 沢登春仁・升川潔訳
ベンヤミン,ヴァルター     「翻訳者の課題」 野村修編訳『暴力批判論』
イリイチ,サンダース    丸山真人訳『ABC』第四章 翻訳と言語
 Snell-Hornby,Mary         1988  TRANSLATION STUDIES - AN INTEGRATED APPROACH
                         University of Zurich 
川村次郎          1981  『翻訳の日本語』日本語の世界15
加島祥造+志村正雄         1992 『翻訳再入門』エッセイと対談  
徳岡 孝夫         1989 『翻訳者への道』
厳 復           1901  「天演論 訳例言」『翻訳論集』1989所収
魯迅・瞿秋白        1930 「二心集」『翻訳論集』1989所収
林 語堂          1932  「論翻訳」『翻訳論集』1989所収
[コミュニケーション論・認知科学]
池田謙一,村田光二     1991 『こころと社会』認知社会心理学への招待
宮原 哲          1992  『入門コミュニケーション論』
大津 由紀雄 編      1995  『認知心理学』3言語
鳥飼 玖美子        1994 「通訳と翻訳」
                 『異文化理解とコミュニケーション』所収
永田 小絵         1995  「話し手はなぜ通訳者に話すのか」
                 『通訳理論研究』8号所収