翻訳を論ず[1]

An essay on translation

 

林 語堂[2]

Lin  Yu tang

 

 

翻訳にルールはない

 翻訳について論じる際に忘れてはならないことは、翻訳は一種の芸術であるということだ。芸術を成功に導くのは個人の芸術的資質とその芸術の分野における十分な訓練にほかならない。芸術にはもともと成功への近道など存在しない。芸術としての翻訳の成否は、第一に原文の表現と内容への徹底した理解、第二に極めて高い母語能力にもとづく流麗な文章表現、第三に翻訳の訓練を通じて会得した翻訳の基準とスキルに対する適切な考え方に依存する。以上の三点よりほかに翻訳の規範としてあげられるようなルールはない。英作文における英文法のようなもの(あるいは、一部の文法学者の意見では我が国の古典における『馬氏文通』のようなもの)はないのだ。本論の目的は「翻訳学」のための規範作りにあるのでもなく、小さい靴にむりやり足を押し込むような窮屈な翻訳のルールを作ることにあるのでもない。いわゆる「規矩準縄」のたぐいは頭の固い研究者が真の芸術に対する自らの目の不確かさを露呈しまいとしてひねり出したものなのであって、これにとらわれることはすなわち学者どもの罠にかかったことを意味する。『馬氏文通』にたよって古文を読もうとするより、ずっとたちの悪い罠である。

 

翻訳の基準について話そう

 既製品のルールはどこにもないとしても、やはり翻訳のスキルについては検討を加えないわけにはいかない。翻訳者が自ら守るべき基準は何か、原文に対してどのような態度をとるべきなのか、どのようなことに配慮して翻訳すべきか、原文の構造を保った翻訳(「欧文脈」)をすべきか、「一語対応」の翻訳は可能か、あるいはより高次の、たとえば芸術(詩歌や戯曲)の翻訳に関わる問題もある。これらはすべからく翻訳者が深く省察し配慮すべきものである。単に英語の辞書の使い方を知っているからといって、多少は中国語がわかるからといってペンに任せて直訳すればすむものではない。訳書を買う読者の期待を裏切ることはできないのだ。これがすなわち前述した三番目の条件になる。翻訳者は翻訳の基準とスキルに関わる問題に対して、必ず適切な見解を持っていなければならない。かりに翻訳者が第一および第二の条件(外国語と母語の高い能力)を満たしていたとしても、翻訳に対して「一語対応」させた「欧文脈」が望ましいというような馬鹿げた迷信にとらわれているかぎり、ときには「我がパリの妻」(Notre Dame de Parisパリ聖母院)ばりの翻訳者が自分こそ翻訳界の明星だとばかりに得意になったり、通じない翻訳はすなわち国語における欧文脈の形成を保証するものだと主張したりする。こうした翻訳はすでに国内外に流布しており、その勢力の蔓延たるやすさまじいものだ。翻訳学の博士は時に、我々に六十四本の歯があったとしても決して歯が立たないような訳書を提供することさえできるのである。もし翻訳は二言語における高度な能力を前提としなければならないのであれば、こうした翻訳はもとより一顧だにする価値もないものだ。しかし、翻訳者の目的、道具、方法、課題に対して何一つ検討を加えないでよい、というのもいささか現実離れしているように思う。

 

翻訳の三基準について

 翻訳の基準にはおそらく三つの基準が含まれているだろう。ここではその優先順にそって検討していきたい。第一は忠実さの基準、第二は読みやすさの基準、第三は美しさの基準である、この翻訳におけるトリプルスタンダードは、厳復の「翻訳の三つの難しさ」とほぼ合致する。忠実さは「信」、読みやすさは「達」であるが、翻訳を芸術作品(詩歌戯曲)の関係を考えると、もちろん「雅」だけで全てを代表することはできない。だが、かりに呉汝倫の言うように「簡潔さを損なっても、真実を曲げてはならない」原則を守るのであれば、きわめてエレガントに名付けられた「信達雅」の三基準に上述の三つの側面が含まれると考えてもかまわない。しかし、「信達雅」の達成はそうたやすいことではないことを我々は銘記する必要がある。この基準には、一.翻訳者の原文に対する問題、二.訳者の中国語文に対する問題、三.翻訳と芸術の問題が含まれていることを忘れてはならない。翻訳者の負うべき責任からいえば、第一に翻訳者は現著者に対して責任を負い、第二に翻訳者は中国の読者に対して責任を負い、第三に翻訳者は芸術に対する責任を負うということである。この三者に対して責任を引き受けることこそが翻訳者としての真の資格であると言うことができよう。

 

翻訳は言語心理について検討しなければならない

 翻訳をこうした角度から論じたものは少なく、我々に参考資料を提供してくれるような特別な調査もほとんど行われていない。厳幾道(厳復)の『天演論訳例言』、章行厳の『答容挺公論訳名書』、胡適の魯迅にあてた「論訳名」、傅斯年の『訳書感言』など、いくつかの論文や、新聞の翻訳批評あるいは翻訳書の序文などの断片的な記述が見られるのみである。翻訳の方法について全般的に述べたものもあるし、訳語のみをとりあげて論じた者もあるが、いずれにしても経験談の域をこえず、事実をあげて学術的に分析したものはない。そこで論の立て方も主観的なものにならざるを得ず、明確な結論を出すまでにいたっていない。だが、実際には、翻訳の問題というのは、やはり翻訳者と翻訳の対象となっているテクストの相互関係に帰結する。そこで翻訳の問題とは言語や文字の心理(性質)の問題である、と言うことができる。もし我々がこの問題に対して多少なりとも客観的な解決を図りたいと思うのであれば、言語心理の分析を立論の根拠として用いなければならないのは自明のことだ。まず語や文章の心理(性質)を客観的事実として明らかにし、そのあとに、翻訳者はいかなる基準と態度をとるべきかという結論を出すべきである。この論文でことばに対する徹底的な研究を行うことができるとは決して言えないが、立論の根拠は常にここにあると言っていい。まず語義の性質を検討し、その後に一語対応で翻訳できるかどうかを判断する。先にテクストの心理性質を検討し、その後に翻訳者が翻訳に際していかなる態度を採るべきかを決定する。

 

 

一.忠実さの基準――翻訳者にとって最優先すべき責任である。これは、原文あるいは原著者に対する責任であり、言い換えれば、どのようにすれば原文に忠実に、著者の思想や意図を曲げずにすむかという問題になる。ここで最も重要なのは、「忠実」をどのように解釈するかである。一語一語を原文どおりに並べるべきなのか、あるいは翻訳者は自らの判断で自由に原文の語句を斟酌して読みやすい訳文を作り出すだけの権利を行使できるのかが問題となる。

 

忠実さの四段階

忠実さの程度はほぼ四段階に分けることができる。直訳、死訳(逐語訳)、意訳、胡訳(超訳)である。今日までに翻訳界が上げてきた業績には以上の四種類の翻訳が全て含まれている。「逐語訳」は直訳派が極端に走った結果であり、直訳派の中の「過激派」であるといってよい。翻訳に対する態度は、原文の語句を崇め奉り、神聖にして冒すべからざるものと考え、その構造をも移そうと思うあまり、“the apple of my eye”(愛しくてたまらない者、掌中の珠)を「我が目のリンゴ」と訳したり、“took the heart out of him”(怯えさせる)を「その心を取り出す」と訳したりしなければ気がすまない。もちろん、ごく普通の慣用句としての本来の意味を伝えることはできないし、中国語の「欧文脈的な美しさ」を表現することにも成功していない。もしこの方法で漢文を英語に翻訳したら「趣味横生」[3]は、“the interest flows horizontally”と訳してこそ原文に相当することになる(「嫁禍他人」[4]も“marry the misfortune to others”となる)。その正反対にある「超訳」は意訳派の中の過激派で、彼らの主張では訳文をすらすら読めるようにするためには、あるいは古典作品と瓜二つの古めかしく典雅なスタイルにするためには、翻訳者が何をやってもかまわないと考えている。超訳の頂点にあるのは、なんといっても林琴南・厳幾道両先生をおいてない。お一人はハクスリーの十九世紀の作品を翻訳して柳子厚の『封建論』[5]の焼き直しにしてしまい(張君励の批評を引用)、もうお一人は西洋の長編小説を『七侠五義』[6]や『閲微草堂筆記』[7]に変身させた。もし翻訳者が原文の意図をきめ細かくくみ取ることができるのであれば、こうした訳し方でも原文の大意を損なうことはないかもしれないが、原文を精緻に読み解くことなく、単なる印象のみをとらえて余計なことを書き加えたりするなら、最終的には「我がパリの妻」を「パリ天主堂」で代用したような笑い話が生まれる結果となる。超訳もこの程度で来れば逐語訳と同罪だ。どちらが是でどちらが非か論じるにも値しない。

 

「直訳」、「意訳」という呼び方を改めよう

 そこで、我々は逐語訳と超訳について論じることはやめ、直訳と意訳を取り上げていきたい。しかし、ここで読者の胸中に一つの疑問が生まれたことだろう。直訳と逐語訳の違いは何か、また意訳と超訳にいかなる区別があるのか、ということである。こうなると「直訳」、「意訳」という、ごく一般的な名称に対して、根本的な疑問が生じてくる。この言い方を翻訳者のとるべき態度の問題において用いることが適当なのだろうか。どちらも使いやすい言い方ではあるが、翻訳を行う者の態度として用いるには正鵠を射ていない。いずれも翻訳の手順を示していないばかりか、誤解を招きやすい表現ともなっている。「直訳」を支持する者は「書かれているとおりに直訳すべきだ」と主張するが、それでは「逐語訳」と何の違いがあるだろうか。読者が「直訳」と「逐語訳」の違いはどこにあるのか、と尋ねても、作者のみならず、おそらく直訳派の最も優秀な翻訳家でも答える術がないに違いないのである。逐語訳を実践している輩は誰でも「直訳」を自認し、それが実際には「逐語訳」であることに気づかない。逆に、新聞紙上で翻訳について大いに弁論をふるっている学者先生が、自分で訳した「超訳」の名文を示して「意訳」の美名に自ら酔いしれているのを見たことがある。直訳派はただひたすら語から語へ忠実に移し替えなければならないと思いこみ、意訳派は自由に言い換えて構わないと決めつけ、誰も翻訳の手順について追究しようとしない。これはまさに「直訳」、「意訳」という呼び方によってもたらされた災厄である。それだけではなく、これらの名詞を用いた結果として翻訳者にもある種の観念が生まれることになった。それは翻訳には二種類の同時に適用できる基準があると考えるようになったことだ。最も正しい基準は一種類しかなく、最も適した技術も一種類しかない。翻訳の方法はもとより無理矢理に一致させることはできない。翻訳の方法、自由さあるいは忠実さの度合いは、翻訳者によって差が出ることも免れ得ない。しかし、たとえそうではあっても、訳者の個性による致し方のない差異の範囲内にとどまるべきであって、翻訳に全く異なる適用基準が同時に存在してよいということにはならない。

 

「語訳」[8]と「文訳」[9]

 かりに、我々が翻訳の方法を示すことのできるような呼び方を求めるとしよう。一目で見てその意味が分かり、翻訳の手順が示されるような、言い換えれば、翻訳者がことばに対していかなる関係を結ぶのかがわかるような名称だ。翻訳者が原文を理解し、翻訳するときには二つのやり方しかない。すなわち語を主体とするか、文を主体とするかのどちらかである。前者は「語訳」、後者は「文訳」と呼んで差し支えないだろう。語訳と文訳の定義は以下に詳述するとおりであるが、その前にごく一般的な説明を行っておきたい。語訳は語の単位で解釈し、翻訳する方法である。すなわち、語義は文脈と離れて独立した意味を持っていると考え、翻訳者は語義を逐一訳出していく。これらの断片的で独立した語義を順番に並べていけば、最終的に文の意味を獲得できるとする方法だ。文訳を実践する翻訳者は、これとは逆に、語義を固定的に見ることを最も恐れる。語の意味は文脈の中でそのつど変化し、きわめて捉えがたい。翻訳者は語から語へ移し替える必要はなく、さらに語から語への移し替えは往々にして不可能でもある。そこで文訳を主張する翻訳者は語義をかなり柔軟にとらえる。語は文において組織的に結びつき、全ての集合による文の意義こそが文全体の命脈であると考える。あるひとつの文のなかで、語義は互いに連なって結びつき、新たな「総体としての意義」(gesamtvorstellung)を形成する。この総体的意義は柔軟な語義判断と語の関連性から得られるものである。翻訳に対しては、原文の総体的意義を明確かつ精確に理解した後に、その総体的意義にもとづいて、邦文の統語習慣にのっとて新たに表現する態度を採る。語から語へ移し替えられるのであればそれに越したことはないが、総体的意義を表すために逐語訳では自国の言語習慣にそぐわないのであれば個別の語を犠牲にして、それに相応する、あるいは最も近似した表現法を探ることになる。たとえば成句の翻訳で、原義を最も精確に表現するものが自国にあれば、原文の用いる語と異なっていてもかまわない。原文の語を逐一訳すことよりも、むしろ元の意味を再現することを優先する。これが語訳と文訳の違いである。

 

語訳は間違っている

 以上に述べた語訳と文訳は、決して直訳と意訳の言い換えではなく、翻訳の新たな基準と言うべきものだ。議論の余地を残すため、語訳と文訳の別を語の解釈方法の違いのみから述べる。直訳、意訳についての議論はすべて主観から出るもので、個々人の好みで選択できるからである。さて、語義を解釈する語訳は語釈の是か非かのどちらかしかない。かりに語訳が正しいとすれば、文訳は間違いということになり(逆もまた成り立つ)、両者は並び立たない。どちらが正しく、どちらが間違っているのかは、それぞれが原文に対してどのような見解を持っているかによって判断することができる。われわれははっきりと、かつ断固として言うことができる、文訳は正しく、語訳は間違っている。これは明々白々たる動かせぬ道理である。文訳とはいったいどういうことなのか、その詳細な方法はいかなるものかについては後述するとして、まずここでは語訳が間違っていることを明確に示しておく必要がある。語を解釈し、語から語へ訳す方法は、一般的な翻訳者が犯す間違いの最大の原因となっている。以下に語訳が通用しない理由について順序立てて論じていきたい。

 

忠実は語から語への対訳の謂いにあらず

 語訳が間違っている第一の理由は、語義に関する見方の根本的な誤謬にある。語義は生きているものであり、その用いられ方によって様々に変化するものだ。これが、語が前後の文脈の中で一貫したつながりを生じる所以である。かりに翻訳者が機械的に語から語へ訳すべきだとの主張にしがみつくなら、語の辞書的意味だけにこだわり前後の意味を無視するという間違いをおかすことになる。語の意味は、おそらく一部だけなら定義することが可能だが、ときには予測し得ないような意味で使われることもある。しかも簡単な語であればあるほど、用法は多岐にわたり、一語ずつ分解して翻訳するような方法は通用しなくなる。ばらばらな単語に分解してしまえば全体の意味を理解することができなくなるからである。これは英語翻訳において特に顕著である。たとえば、「問題」、「研究」、「目的」、「道具」などの語の意味はあまり多岐にわたらない。たとえば study of the problemを一語ずつ分解して「問題の研究」としても決して間違いではない。しかし、parsonを「牧師」、noseを「鼻」と解釈してparson’s nose(ボイルまたはローストした丸鶏の尻の部分)を「牧師の鼻」と翻訳してしまっては、聖職者に対してあまりに申し訳ないことになる。あるいはstreetを「街路」、Arabを「アラブ人」としてStreet Arab(ストリート・チルドレン、または無学な異国人)を「路上のアラブ人」と訳すなら、翻訳者の不明であるとしても、あるいは一語対応で翻訳する主義の問題であるとしても、結局は忠実でもなく読みやすくもない。こうした慣用表現における語義の変化はもとより誰もが認めているところである。しかしテクストにおける語義の変化は慣用表現のみの問題ではない。たとえばyoungという語は通常、「青年」、「若者」と解釈される。a young personは字面から見れば「若い人」となるはずだ。だが実際にはメイドなど地位の低い若い女性に使われることが多い俗語である。the young personには猥褻な事柄については話すことができない未成年という意味も含まれている。 young peopleは成人してはいるが未婚の青年を指し、young rascalは子供たちに対するからかいの意味を含む呼びかけとなり、young thingsには大切なものというニュアンスも含まれている。a young man is a hurryは社会改革に熱心な青年である。このほかにもthe night is yet young, young in crime等(いずれもConcise Oxford Dictionaryより)はどれも語の用法が原義とは異なることを示す例である。語義を明らかにしたければ、文全体にそれを求めるほかなく、字面にこだわり辞書の定義に頼ってわかるものではない。さらに、dramatic possibilities with religious exactitude, someone’s eternal, gray hat, the way of all flesh等におけるdramaticreligiouseternalall fleshは語から語への翻訳原理にしたがって語の原義を解釈しなければならないとしたら、翻訳は絶対に不可能な事になってしまう。こうした例から、我々は語義の文における変化といわゆる生きた語義とはなにかを見てとることができる。語訳法が通用しないのは、むりに語を主体とし、文の流れの中での関連性に意義を見いださないことが原因である。文を一語ずつに分解し、語ひとつひとつを訳すことが可能であると考えているところに問題がある。翻訳者はもちろん原文の語義に対して透徹した理解が必要であるべきだし、語義の理解が文の理解の前提となることも確かだが、いわゆる語義を死んだ、固定した、独立したものと捉えるべきではなく、生きた、関連性のある、むりに分解することのできないものであると見なければならない。

 

辞書、字典はあてにならない

 だが、単独の語のみで部分的に意味を当てはめて強引に解釈することはできないのは、きわめてわかりやすい事実であって、実際には以上のように詳細に述べるまでもないことである。しかるに翻訳者の誤訳は(新聞などでやり玉に挙がっているのは)、往々にしてこの種の融通の利かない語義翻訳に陥っているためである。これは結局のところ、翻訳者が英語を深く研究した経験がなく、語の用法(絶対に重要)についても熟知していないために、徒に辞書の定義に従って語を解釈してから、ばらばらの語義を集めて文意を解釈しようとすることに起因している。言い換えれば、辞書に掲載されている定義を絶対視しているのである。そこで、辞書はあてになるのかという問題に触れなければならなくなる。かりに、英語についてあまり研究したことのない人が、一冊の辞書をたよりに翻訳を行い、本を出版したいと思ったとしよう。これは可能だろうか。もし、上述したような語義に関する見方と、語義は語用によって決定されるという意見が正しければ、我々は翻訳者に対してきわめて高度な英語の知識と運用能力を期待しないわけにはいかない。それが最も基本的な条件だからである。そして「辞書を抱えて書を訳す」方法には大いに疑問を抱かざるを得ないだろう。およそ翻訳者たる者、それぞれの語の用いられ方は多く見てきているはずだし、そうした経験によって語義を自然に熟知するようになり、難しさを感じることがあったとしても、適切に訳出する自信は持てる。もし辞書の説明だけで語義の深い部分まで理解でき、しかも間違いは起こりえないと思っている者があれば、それはあまりに定義を盲信した語義観を守ろうとする者だと言える。今日の翻訳界の欠点は、翻訳者が英語に関する訓練を相当に受けて、それを翻訳の基礎としなければならないことを知らず、ただ辞書に頼りさえすれば翻訳はできると思いこんでいるところにある。

 

辞書の役割-Concise Oxford Dictionaryを論ず

とはいえ、辞書は全く役に立たないわけではない。ある程度以上の英語力がある者にとって、辞書は意味がはっきりとは分からなかったり曖昧であったりした語について、より明確で正確な解説をしてくれる役割を持つ。最もよい辞書は語の用法を主として記載する。客観的な方法で語の実際の用例を収集する手間をかけ、語のあらゆる用法と成句や複合語をその見出し語のもとに列挙し、しかる後にその用法に依拠して語用において生じる語義の変化を分析し、辞書を開けば語の全ての用法が一目瞭然に理解できるような辞書であるべきだ。語の定義づけに終始している辞書はよい辞書とはいえない。良い辞書があれば他人の助けを借りたり教師に教えを請うたりする必要もなくなる。英語にはすでに世界史上空前の革命的な辞書編纂事業が行われている。すなわちConcise Oxford Dictionaryである。体裁は大辞典とほぼ同様で、記述は簡潔にして詳細、万象を網羅すると言っても過言ではない。英語辞典の精華、英知の結晶であり、価格も低廉で誰もが購入している。この辞書は世界の英文学界で賞賛されているにもかかわらず、ひとり我が国では関心を寄せる人がないようなので、この機会を借りて紹介しておく。(翻訳者必携の辞書である。基本的な語ほど用法は多岐にわたるが、多くの用例を示して詳述している。最近(1924年)、オックスフォード大学出版ではさらにPocket Oxford Dictionaryを出版した。コンサイスより低価格だが、内容は豊富で非常に使い勝手がよい)。

 

忠実さは精神の伝達[10]にある

以上で語訳がなぜ間違いなのかという議論を終える。忠実さは語から語への移し替えを指すのではない、これが第一の結論である。翻訳者は原文の一語一語を全て理解する必要はあるが、一語一語を全て訳す必要はない。翻訳者が忠実でなければならないのは、原文の語それ自体ではなく、それらが結びついたところに生まれる精神(根本の意義)である。忠実さの二番目の定義は、読んでわかりやすく訳そうとするだけでなく、原文の精神を伝えることを目的としなければならないということだ。原文に用いられた語の精神や文の勢い、そして言外の意味に忠実に翻訳すべきである。これは語訳では決して達し得ないレベルである。「語の精神」は、語の論理的な定義に情感的な色彩をも包括する、語の暗示力である。どの語にも言語学で言うところのGefühlston(Sapirにしたがって英語では“feeling tone”と呼ぶ)である。ことばは指示対象を表示するだけでなく、情感を伝える役割も持つ。意味を明確に伝えることのみを求めるのではなく、読者の心に訴えかけることをも求めるべきである。詩と散文の違いは、詩人は語が直接働きかける力を運用し、語義のほかに読者に一種の暗示と衝撃を与えるところにある。

我々が「山重水複疑無路、柳暗花明又一村」[11]を読むとき、詩句の美しさとともに文字の持つ暗示力に衝撃を受け、まるで自分が詩の世界の中に引き込まれていくような幻想を抱く。語の暗示力を適切に用いることができない者は、いたずらに全ての語を訳して全文の意義を訳出しようとするが、むしろ訳さない方がよいくらいである(近年、「国風」[12]を現代語に翻訳したものがある。内容は分かりやすくとも精神を伝えていない作品になっている。原作の翻訳ではなく、原作の暗殺と呼ぶしかない)。ここから翻訳の難しさをうかがい知ることができる。翻訳はもとよりたやすいことではない。きわめて易しいことだと思うよりは、あまりに難しすぎると思った方がよいくらいなのである。個人的な練習のために翻訳をするのはかまわないが、個人あるいは教室での習作を出版して世に問うたり、叢書に入れたりして名利を求める必要は全くない。翻訳者には少なくとも原作者に対する責任感がなければならず、読者が無駄な金を使わなくてすむようにしなければならない。西洋の美術品を傷つけ損なって、本来の姿を回復しないままに名前だけ美しく整えて紹介するなどは、いったい何のためなのだろう。

 

絶対的な忠実さはあり得ない

 さらに、忠実さの第三の定義、すなわち絶対的な忠実さはあり得ないことについて述べよう。翻訳者が実現をもくろむことができる忠実さは、相対的な忠実さであって、絶対的な忠実さではない。語訳をする者は、一語一語を忠実に訳すことで100%の忠実さを達成できると考える。だが100%の忠実さは一種の妄想である。7080%か8090%の忠実さを達成できれば、翻訳者としてできる範囲の局限まで達したと言える。語には語音の美しさ、語義の美しさ、精神の美しさ、語勢と語気の形式的な美しさが備わっている。翻訳者は語義に気をとられて精神を忘れ、あるいはその精神を伝えてはいるがスタイルを忘れる。作品の意義、精神、気勢、スタイル、音声の美しさのすべてを同時に完全に訳出することは全く不可能なことだ。忠実さの定義の第二に述べたごとく、語には精神があるためである。一語一語には個性がある。それを外国語に移そうとすれば相対的に最も近い語があるかもしれないが、色合いも個性も全く等しい語は存在しない。たとえば、中国語の極めて平易な語彙である「高明」、「不通」、「敷衍」、「対付」、「切磋」、「砥礪」、「隔膜」、「疏通」などは全て翻訳不可能である。逐語訳について述べれば、一文または一作品で78割の語を対訳しようとするだけでも難しい。それ以外の部分はどうしても遠回しに原文の意味を明らかにする必要がある。細かい面に関して論ずると、翻訳者は決して到達することのできない100%の直訳をしようなどとは考えないほうがよいのである。翻訳者は原文の意義を100%理解し、その後に翻訳者自身の筆力に頼って、自国語の性質と習慣をできる限り生かし、最も適切な訳文を探して表現し、原文の意味をほぼ満足のいく正確さで翻訳し、一つか二つの語が性質の差異の為にややずれが生じたとしても、無理矢理に一致させることはない。われわれは翻訳が一種の、やむを得ないが有益な事業であることを忘れてはならない。翻訳は原文に取って代わるものとはなれないのだ。翻訳者が求めることをゆるされるのは、ただ相対的な、非絶対的な、成功でしかない。文章が美しければ美しいほど、研ぎ澄まされた語を用いていればいるほど、捉えがたいものになる。シェイクスピアの、And thus the native hue of resolution is sicklied o’er with the pale cast of thought,あるいは陸游の「山重水複疑無路、柳暗花明又一村」の二句に存在する精神と色彩を100%翻訳できるというのは、どちらも同じように馬鹿げている。

 

 

翻訳者の自国の読者に対する責任

 二.読みやすさの問題――以上に忠実さの三つの定義について述べ、語訳は間違った方法であること、また、文訳とはなにかについて、読者にほぼ理解していただいたと思う。まだ言及していなかったが、忠実さには第四義がある。それは忠実とは意味の通じない文章を指すのではないということである。翻訳者は一方では原作者に責任を負うが、もう一方では自国の読者のために翻訳を行うのであるから、当然の事ながら自国の読者に対する責任も負わなければならない。これは翻訳と著作の共通点である。噛んでも噛んでも噛み切れないような文章を読者に与えて、こうした文章を読み慣れれば平気になるなどというのは、読者に対する責任をあまりに知らなすぎる。

 

文体の心理

 翻訳の読みやすさに関する問題は、いかにして西洋の思想を自国のことばに訳出するかの問題である。翻訳文の読みやすさは、ふだん文章を作成するときと同様に、いずれも文を主体として考えることで実現する。ふだん文章を書く時の心理的な手順は、分析的なものでなければならず、構成的なものではない。まず総体的な意味があって、その後に各部分に分かれるのであり、最初にばらばらの語句が存在し、その後にこれらを構成して総体的な意味を形成するわけではない。翻訳文を読みやすいものにしたいのであれば、文の意義を優先させ、語義は後回しにすべきだ。これを文の分析説というが(Wundtの分析説による)、経験によってたやすく証明できることであろう。文章を読みやすくしようとすれば、、筆を執って書き始める前に、心の中に言いたいことが先になければならない。これがいわゆる総体概念(total concept)である。まずその言わんと欲するところを明らかにする。文章を書き始めるときには、自分がマスターした語法によって一語また一語と書き記さざるを得ないが、それぞれの語の意義が先にあり、語をまとめて文にし、さらにメッセージを伝える総体の意義を形成しているのではない。とおりの良い文章は、書き始める前に語句や文が自然に立ち現れ、あたかもその文章を読む声が耳に聞こえてきたかのように思える(autdictation)ものだ。もし語をあらゆる場所に探し求め、語義をまとめて文にした場合(extemporizing)は、できあがった文章は絶対にエレガントで読みやすいものにはならない(以上の名称はPalmerに依拠)。もし、できあがった翻訳文に対してますます違和感を抱き、翻訳者が文に何か物足りなさを感じるとすれば、それは語を優先して文を後回しにし、構成的な態度をとり、分析的な手順をたどらなかったためなのである。これを総体概念の分析、すなわちふだんの文章表現心理という。(いわゆる分析は、自覚的な「分析」を指すわけではなく、やむにやまれぬ手順の一種であるに過ぎない。たとえば字を書く人は、かならず文字全体の印象が頭の中にあり、その後、筆順にしたがって一画ずつ書いていく)。

 

翻訳は文を単位とする

 翻訳と作文の違いは、その元となる思想が書き手自身の心中に生じたか否かにある。外国語を用いている作者が書いたものを、翻訳者が同等の思想を自国語でも表現するときには、その心理は作文するときと同じでなければならない。これを言い換えれば、かならず文を基本の単位とすべきで、一語ずつ並べてみて最終的に文にしようと考えてはならない。

 第一に、翻訳者は原文の全体の意義を詳細かつ精確に体得して吸収し、その後、この文全体の意義にしたがい、中国語の語法に則って翻訳すべきである。これが、ここでいう「文訳」の方法だ。

 

翻訳者は中国語の書き方に完全に依拠すべきである

 第二に、文章は完全に中国語の性質に合わせなければならない。翻訳者が表現しようとしている思想が外国のものである以上、多少なりとも外国語の影響を受けることは免れ得ないし、翻訳者が元の姿を完全に消し去ってしまうべきでもない。だが、翻訳者が頭の中で原文の思想を意味のある中国語に訳すには語から語へ移し替えて、中国語のようで中国語でない、通じるようでいて通じない訳文を作ったところで、思想を伝えるためには全く役に立たない結果になる。我々がこうした翻訳文を読むときの感じは、その文法構造には何らの不備もないが、中国人は決してこのようには話さないというものだ。語にはそれぞれ語性があり、語用や文法もみな一定の習慣にしたがっている。日頃よく「通じる」、「通じない」というが、これは文がおよそこの習慣に従っているかどうかの問題である。習慣に反するものはいわゆる「通じない」文章だが、これは文法上のルールに従っているかどうかとは別のことだ(古文を書いて通じない場合、古文の筆法や習慣にあっていなかっただけなのだ。「習慣」はusage, idiom,文法はgrammarである)。中国の学生は常に「中国人の英文」を書く。そこに含まれる思想や心理は完全に中国のもので英語のものではない。文法上の間違いは皆無だが、イギリス人が見れば必ず「英語ではない」とコメントする。西洋人が中国語で「謝謝很多」と言えば、中国人は必ず「それは外国語だ」と言うだろう。訳文があまりに西洋的な心理をたもっている場合にも、読者の感想はやはり「これは中国語ではない」ということになるのだ。こうした中国語ではない中国語を「欧化」(欧文脈)の名で覆い隠してはならない。なぜなら、これは欧化とは別の問題であるからだ。どのようなスタイルの文であろうと、「国語化」される以前はすべて通じないのである。それを翻訳だからといって例外にしてはならない。さらに、欧化の大部分は語彙上の問題である。文法の欧化はきわめて難しく、一つ一つの文まで全て欧化させることは不可能だ。これは本論で述べるべき問題ではないし、また紙幅の関係から、翻訳と芸術の問題に移らざるをえない。

 

 

美しさの問題

 第三の基準として、翻訳と芸術の問題をあげる。忠実さと読みやすさに関してはすでに上述したとおりである。これらは語句や文に関しての論述であり、翻訳文書は原文に忠実で読みやすくなければならないことを述べた。しかし翻訳には芸術上の問題も存在し、これについても検討を加えないわけにはいかない。翻訳は実用に供する以外にも、美的な面も同時に配慮すべきものである。理想的な翻訳者は自らの仕事を一種の芸術として捉える。芸術を愛するように翻訳を愛し、芸術に対するような細心の注意で翻訳に取り組み、翻訳を一種の美術作品として創り出す(translation as a fine art)。翻訳の対象となる原作はいずれも西欧の芸術作品である。詩歌や小説のたぐいは、誰も翻訳する者がなければそれで終わりだが、もしこれらの作品を翻訳するのであれば、内容を伝えるのみならず、ことばの美しさという問題についても注意を払わないわけにいかない。

 

芸術の翻訳不可能性について

 本当のことを言えば、われわれはCroceの「真実の芸術作品は翻訳できない」ということばを認めてもよいのである(Croceは芸術は「翻訳」できない、「再創作」できるだけである、翻訳文は翻訳者の創作品で、Productionと見るべきでreproductionと見てはならない、と言った。Benedetto Croce:A Esthetik,S.72)。たとえば、詩は文学作品の中でも最も純粋な芸術であり、最も選び抜かれたことばに託されたものであるから、詩は最も翻訳できないものなのだ。今昔、洋の東西を問わず、最も素晴らしい詩(とりわけ叙情詩)はすべて翻訳不可能である。なぜなら、それは特別なことばに託されたものだからだ。作者の思想とことばが芸術作品として詩の中で完全に、自然に融合している。作品に用いられた固有の語を離れてしまえば、魂は肉体を失ってさまよう。魂を失った肉体もまた生きながらえることはできない。芸術作品というものは、およそこのようである。これが上述した忠実さの第三の定義(絶対的な忠実さは不可能)になる。この定義は芸術作品においてとりわけ顕著だ。詩文を訳さなければならないときがあるが、一切の不可能性の中で何ができるかを見いだすしかない。実際に翻訳に成功している芸術作品には、Sheleyelの訳したシェイクスピア、FitzgeraldSophoclesOmar Khyyam MorrisUolsungaCarlyle Wilherm Meisteなどがある。翻訳の成否には、芸術作品には二つの種類があることが関係している。一つは作者の経験や思想から書かれたもので、もう一つは芸術の美がことばそれ自体にあるものだ(経験や思想の具体的な表現方法は、実際にはっきりと二種類に分かれるものではない)。前者はシェイクスピアの戯曲、後者はSwinburneの叙情詩、前者は古人の『孔雀東南飛』[13]、後者は南唐後主の詞がその典型である。前者は原作で用いている個別言語に比較的依存していないが、後者は原作の語それ自体に作品の思想がかたく結びつき引き離すことはできない。後者を翻訳しようとしても、決して成し得ることはできない(Edward Sapir Languageを参照)。

 

何を言うかとどう言うか

 芸術作品の翻訳で最も重要なのは、原文のスタイルと内容のどちらも重視することである。何を言っているのかに配慮するだけでなく、どのように言っているのかにも注意しなければならない。蘇州の町中で人を罵っている女がいたとしよう、われわれは彼女が何を言っているのかを無視して、ひたすら彼女のことばの抑揚や音調に耳を澄ましてその美しさを楽しむことができる。あるいは呉稚暉先生[14]の文章を拝読する際にも、言わんとする事は何かよりも、どのように言っていたかだけを記憶にとどめることができる。一人の作家には一つの作風がある。作風はそのスタイルゆえに尊ばれる。Iliadの故事は、その内容だけで文学とするには不足がある。これが文学作品として成功した理由はHomerのスタイルにあるのだ(Homer’s Manner; Matthew Arnold: On Translating Homerを参照)。ゆえに、芸術的文章の美しさはその内容的な質にはなく、そのスタイルにある。スタイルは芸術にとって中心的な課題である。だからこそ、われわれは自分の好きな作家の作品であれば、その内容いかんにかかわらず、どの作品も楽しむことができる。なぜならわれわれが愛しているのはその作家のスタイルや個性であるからだ。芸術作品を翻訳する者はまずその対象となっている作家のスタイルと風格を見極め、翻訳の際にはそれを極力再現するよう努めてこそ芸術の翻訳における義務を果たしたと言える。Goldsmithの「ユーモア」(諧謔的スタイル)を理解しない者に『ウェイクフィールドの牧師』を訳させたとしても、この作品のおもしろみは味わえない。Alice in Wonderlandは、そのおもしろさを理解できる趙元任が翻訳したからこそ、訳書も読んで楽しめる作品になったのである。

 

外的形式と内的形式の問題

 いわゆる形式を軽視しすぎてはならない。形式には外的なものと内的なものがある(outer form and inner form)。外的形式は、文の長短や繁簡および詩の定型などを問題にする。内的形式とは、作家の風格や文体であり、作者の個性と直接に関係するものだ。たとえば、理想主義、リアリズム、ファンタジック、エキセントリック、オプティミスティック、ペシミスティック ユーモラス、スノッブ……、などの様々な特徴がある。外的形式をいかに処理するかは翻訳者が工夫をこらして相応しいものを求めることになる。われわれがいま自覚すべきことは、中国には詩のスタイルが少ないということである。五言(絶句)でEnglish dramatic blank verseを訳しても、長短句の形式で西洋の民謡を訳しても、あるいはそれがScott’s balladMilton’s sonnet であろうと、blank verseでもPindaric Odeでも、いま最も流行しているスタイルをなさない自由詩の形式で翻訳したとしても、いずれも馬鹿げた試みに終わるだろう。内的形式に関しては、翻訳者の長年にわたる日常的な文学の経験と学識ひとつにかかってくる。これは文学を教える教員や参考書が取って代われるものではない。翻訳者は原作の文学的センスと価値を完璧に理解したという確信を得てから翻訳に取りかかるべきである。もしこのような確信も持てず、よい手だてもないのであれば、不訳(訳さないこと)も選択肢の一つであることを忘れないでほしい。不訳は最も簡単に実行できることだ。

 

Croceの「翻訳は創作」説

 芸術作品を翻訳する場合は、翻訳も一種の芸術活動であると位置づけるべきであると言うことができる。これがCroceの言う「翻訳は創作」、not reproduction, but productionということだ。

 以上に述べた内容は、ごく一般的な翻訳の方法に関する提案にすぎない。実際に翻訳を行う場合は、語句の取捨選択はすべからく翻訳者自身によって判断されるべきである。美しい文章表現や、これ以上はないほどの適切な訳文、十分に原作の価値に迫ることができる翻訳は、翻訳者が自らの手で生み出すものだ。翻訳には既製品のルールはない。また翻訳には絶対的に正しいものもない。同じ文を訳しても、様々な訳文が生まれるのは、翻訳者の国語能力の差違によるところが大きい。全く同じパラグラフの訳文を見ても、章行厳の翻訳と最近の翻訳を比べれば、翻訳に対する主張や意見がどんなに一致していたとしても、翻訳の結果は必ず違ってくる。これが翻訳における個性であり、自由さであって、個人の努力を最も傾注しなければならないところだ。翻訳が芸術であるとされるのは、まさにこの意味において他にない。

 

以上

 

訳注



[1] 「論翻訳」:1932年に上海光華書局発行の呉天曙編『翻訳論』所収

[2]  林語堂(1895~1976)文学者。原名は和楽。福建省の人。上海セント・ジョーンズ大学卒業後、米国とドイツに留学。帰国後、北京大学および北京女子師範大学で教鞭を取るかたわら、魯迅らの語糸社に参加し文学の旧勢力に対抗した。1936年に渡米後ほとんど国外で生活し、次第に反中共・国民党支持の立場を明確にして、晩年は台湾に定住。

[3]  面白みに満ち満ちている」の意

[4] 禍を他人に転嫁する

[5] 子厚は柳宗元の字、『封建論』により古文復興を唱えた。

[6] 清朝の通俗小説、日本における江戸を舞台にした捕物帖に相当するような内容

[7] 怪談話や不思議な物語を集めた小説集

[8]  原文は「字訳」。一語一語の単位で対応させて翻訳する方法

[9]  原文は「句訳」。文または文章の単位で翻訳する方法

[10]  精神の伝達:原文は「傳神」。「神」は精神であり、根本的な意義である。

[11] 陸游「遊山西村」。全文は「莫笑農家臘酒渾 豊年留客足鶏豚 山重水複疑無路 柳暗花明又一村 簫鼓追随春社近 衣冠簡朴古風存 従今若許閑乗月 挂杖無時夜叩門」

[12]  『詩経』に収録。各地方の歌謡を集めたもの。

[13]  中国に古くから伝わる、夫婦の情愛を描いた民間伝承の物語。

[14]  18651953。日本留学後、1902年に蔡元培らと愛国学社を創設。1903年「蘇報」事件により渡欧、1905年パリで同盟会参加、1907年パリで李石曾張継らと『新世紀』発刊、辛亥革命後帰国、1924年国民党中央監察委員。