亞洲翻譯傳統與現代動向學術研討會(目次に戻る)


孔慧怡 「中国の翻訳の伝統における特色」


翻訳活動の歴史的展開

近代以前に中国文化に大きな影響を与えた翻訳の流れは以下の三つの時期に分けられる。

  1. 漢代末期から九世紀中葉の仏典翻訳活動。(二世紀〜九世紀)
  2. 明代末期のイエズス会宣教師による翻訳活動。(十六世紀ごろ)
  3. 清朝末期の欧米諸国の中国進出に関わる翻訳活動。(十九世紀〜二十世紀)

 このように、時間的に分断された形で三回の翻訳ブームがあった。この三回の翻訳活動は具体的な翻訳作業という側面から見ると、どのような共通点があるだろう。

 中国は伝統文化の面では大きな優越感を持っており、近世まで外来の文化に依存する必要性を全く感じたことがなかった。これが翻訳に与える影響は大きく、国外の言語や文化を理解することは決して中国の知識階級に課せられた任務ではなかったのである。したがって、いわゆる翻訳は外国人の手になるものが大半をしめ、本国人による翻訳は稀である。もし歴史に名を残す翻訳者を十名選び出すとなると、外国人が大部分なのである。これは日本、韓国などアジア地域の他の国と比べても、また欧州各国と比較しても、大きな特徴となっている。上記の三項目を見ればわかるように、中国における翻訳活動の展開は、それぞれ宗教と関連のある外来の勢力によるものだ。中国は自ら充足し外国に門戸を閉ざした国であったために、本国には外国語を翻訳できる人材がほとんどいなかったことも、その大きな原因であった。

 

仏典翻訳の主力は外来の翻訳者であった

 仏典翻訳では玄奘、鳩摩羅什、真諦、不空(または義浄)を「四大訳家」とするが、本国人は玄奘のみである。仏典翻訳に従事した人数を見ると、漢代末期から唐武宗の廃佛までに中国で翻訳にあたった翻訳者は外国人僧侶が圧倒的多数を占め、本国の僧侶は後期になってから徐々に少数ながら現れてきている。八百年近くのあいだ、翻訳は外来の力に依存してきたと言えよう。国内知識階級は翻訳活動を本国文化の主流として位置づけることがなく、翻訳はずっと文化の周辺的な作業であると見なされ、知識人の従事する活動とはなりえなかった。当時の国内ではまだ儒教の勢力が圧倒的であったことも本国人翻訳家の出現をさまたげた大きな原因であろう。しかしながら、これを別の角度から見るならば、中国の仏教界で外国の翻訳僧が高い地位にあり、排斥されることがなかったことは、中国の翻訳市場が自由で開放された場所であったことを示している。

 

明末の外来宣教師による翻訳

 仏典翻訳では、少数ながら本国人の翻訳僧がいて、中には玄奘のように重要な役割を果たした者もあったが、イエズス会による翻訳活動は完全に外国人だけによるものであった。これは宣教師たちが中国に到着する前から現地融合策をとっていたためである。彼らは中国語を話し、中国の衣服を着た。マテオ・リッチにいたっては儒学を用いて儒学を超えるという方法をとり、中国の士大夫階級に入り込んでいる。また、この時期は中国が数百年の鎖国政策をとってきたために、外国語を解する人材が国内には全く存在していない時期でもあったため、完全に中国語のわからない宣教師は一人としていなかった。また、この翻訳活動は数十年で衰退してしまったために、本国人翻訳者が育つ時間もなかった。

 

清末の翻訳活動

 十九世紀半ば、中国の社会は劇的な変化を遂げることとなった。清朝末期の翻訳はやはり依然として外来の翻訳者によるところが大であり、十九世紀末の時点でも大多数を占めていた。ジョン・フライヤー(John Fryer,1839-1928)は在華30年にわたり、うち28年間は江南翻訳館で129冊を翻訳して、訳語対照表を制定し翻訳の体系化に尽力した。ティモシー・リチャード(Timothy Richard,1845-1919)は、さらに在華45年、西洋の科学知識の普及に功績を残した。これら宣教師による翻訳書は当時の知識人に多大な影響を与えることとなった。また、語学教育の面でもマーチン(W.A.P. Martin,1827-1916)は在華66年、同文館と京師大学堂で教授を歴任、外国語教育に従事し多くの人材を送り出した。フライヤーは小説による社会の悪習改善を提唱し、その後の梁啓超らの新小説運動の先駆となった。またリチャードの翻訳したヨーロッパの歴史書The Nineteenth Century ? A Historyとベラミーの小説“Looking Backward(邦題『顧みれば』)は当時の知識人に民族の存亡という面で大きな刺激となった。

 

原文という概念

 中国はもともと「文を同じくする」ことで国家を築き上げてきたため、文字に表された言葉の優越性を極めて尊重する習慣を持っている。中国人にとって知識とは必ず文字に表されたものであることが要求されるのである。しかるに、初期の仏典翻訳は必ずしも文字で記された原典から訳されたわけではなく、僧がサンスクリット語で唱えた経文を傍らに控えた者が原語で筆録し、それを元にして翻訳がなされた。インドでは仏教の修行は口承に頼り、日に数千回も経文を唱えて暗記することを主としていたが、当時の中国でも同様に古文を暗記することが重んじられていたため、この方法は容易に受け入れられ、原文の権威はそれを唱える僧の地位と分かち難く結びついていた。
 十六世紀から十七世紀になると、イエズス会宣教師が中国で翻訳を始めるようになった。当時の中国には原文を直接理解できる人材はなかった。宣教師は翻訳すべき原文をすでに有していたため、僧とは異なり、声を出して原文を唱えることこそなかったが、その翻訳が信頼に足るものであることを示すため、翻訳者自身を権威づけることが必要となった。マテオ・リッチら宣教師は博覧強記によって中国の士大夫階級を敬服させ、彼らの持つ科学知識が正確無比であることを印象づけた。明末清初の宣教師による翻訳は逐語訳のほかに多くの編訳があり、彼ら翻訳者自身への評価が翻訳の受容を推進する上で大きく寄与している。
 十九世紀後期には、本国人の翻訳者が現れはじめた。この時期になっても、原文それ自体というよりも、むしろ翻訳者に対する評価が重要視されていた。外国語能力と文化に対する知識の程度が翻訳の質を左右する主な要因であるが、清末にいたるまで中国には非常に翻訳の人材の層が薄かった。
 一言でいえば、中国の伝統的な翻訳観は原文の文字を重視しているようではあるが、しかし実際には翻訳の権威は翻訳者のそれと同一視され、テキストそのものを問題にしていたわけではない。

 

通訳と翻訳の結合による翻訳

 本国人の翻訳者がなく、外国人翻訳者が自分の母語ではない原語へ翻訳する過程では、本国人による協力が不可欠となってくる。仏典あるいはイエズス会による翻訳、または十九世紀半ば以降の科学技術翻訳と宣教師の翻訳活動も、実際には本国人との共同作業によって行われたものであった。経文を原語で唱える僧の傍らで、意味の解釈と伝達を行った者は今で言う通訳者である。また、明清時代にイエズス会と士大夫による共訳も、宣教師の翻訳を士大夫が推敲し書き直す作業を行っている。しかし、最もよく見られた方式は宣教師が原文の内容を訳しながら口で伝え、それを本国人翻訳者が書き留めるというものである。たとえば『イソップ寓話』の二種類の訳本はいずれも外国人の口訳を本国人が筆録して完成したものだ。しかしながら、外国語を解さない本国人による口訳筆録の形式では、彼らの単一文化に依存する思考様式によって解釈され、目標原語の文化にかなり引きつけられた翻訳になることは避けられない。一般に、こうした形式は翻訳活動の初期にのみ見られる現象であるが、中国の翻訳史においては、常に主導的な地位を占める方式であったことが大きな特徴の一つとなっている。

 

翻訳者という概念

 我々が今日「翻訳者」を定義するなら、二カ国語に通じていることが不可欠の要件となる。しかし中国の翻訳活動から見ると起点言語を解さない翻訳者は決して少なくなかった。つまり中国の伝統的な翻訳活動においては二カ国語の能力は必ずしも「翻訳者」の定義に不可欠の要件ではなかった。また、外国人翻訳者が主力であったことは「母語への訳出」はむしろ珍しいことであった。
 仏典翻訳においても、主たる翻訳者とされている高僧のなかには目標言語たる華語に通暁していない者もあり、実際に「訳」したのは僧伝に「伝語」、「度語」と記載されている通訳者であった。
 明末清初になると、より明確な役割区分が可能になる。すなわち、外来の翻訳者はすべて華語をよくする者たちであった一方、彼らの協力者たる中国士大夫階級には外国語を理解する者は皆無だった。しかしこれら本国人共訳者は堂々と訳者として名を連ね、後世にその名を残している。当然、本国人訳者との協力によって訳文はより洗練されたものになるのだが、当時の中国でそれよりも重要で大きな効果を有していたのは、本国の知識人の名を冠することによって翻訳書の権威付けが行われたということである。したがって、共訳者である本国人が高い社会的地位を有していることが重要であった。
 十九世紀中葉の中国は欧米列強の進出に伴い、西洋の学術を積極的に取り入れる態度を見せ始めた。宣教師たちも再び中国を訪れ、翻訳活動を展開するようになった。清朝末期の本国人翻訳者は明末清初のそれとは異なり、共訳者として外来翻訳者と平等な地位を得ることはなかった。なぜなら、本国人は社会的地位高い者ではなく、外国人の助手として雇用された者たちであったからである。当時、江南製造局翻訳館には多くの本国人翻訳者が雇用されていたが、彼らはそれまでの社会の主流である官僚の出身ではなく、伝統的な観念から言えば社会の周縁にあった人々であった。上述のごとく、翻訳書の権威と翻訳者の権威が直接に結びつく状況下で、彼らは共訳者として名を連ねることはできなかった。

 

伝統的翻訳観の劇的な変化

 二十世紀初頭の翻訳活動に劇的な変化が訪れることになった。まず、わずか二十年あまりの間に国人翻訳者が外国人翻訳者に取って代わり、この翻訳者の変化によって翻訳の方式自体が大きく転換することになった。すなわち、十九世紀半ばまで普遍的に実行されていた外国人の口訳を筆録する方式が激減し、外国語の能力を身につけた本国人が自力で翻訳を行うようになったのである。ここでようやく今日我々が翻訳者と呼んでいる形態が確立する。1840年から始まった数十年間にわたる欧米列強の中国進出に伴い、国家滅亡の危機感が高まるなか、十九世紀中葉から外国語学校の設立と海外への留学生派遣が開始された。これらの政策は翻訳に直接的でしかも重大な効果を及ぼし、厳復などの新しい世代の翻訳者が出現する基盤を築いた。一方、当初は外国語を学んだ人材が宮廷に仕官する道は開かれていなかったことと、清朝末期の宮廷政治衰亡が相まって、かれら外国の言語と文化を学んだ若者たちの目は、官吏としての出世よりもむしろ中国の社会改革に向けられることになったのである。こうして元々は弱い勢力しか持っていなかった改革派は民間刊行物を利用することによって、当時の学術界の主流に躍り出た。そして彼らは欧米と日本に積極的に学び、士大夫の権威による後ろ盾を求めず、改革と啓蒙を大いに提唱した。欧米と日本に学ぶうえで、翻訳の重要性はますます高まっていった。
 翻訳の対象を振り返ってみると、明末清初に中国の知識人が求めたのは西洋の科学技術であったが、清朝末期には梁啓超が「小説救国」を提唱し、数年間の間に小説の翻訳が主流となっていった。自然科学の書籍を翻訳するには、翻訳者自身に相当の専門知識が要求されるが、小説は社会と人間を描くものであり、多くの翻訳者が参入する機会を提供することが可能である。また自然科学の書籍が対象とする読者はごく限られた知識人に過ぎないが、小説の読者は一般大衆である。大量に印刷されて広く販売される小説は、経済の近代化と社会の文明化の波に乗って大きく発展し、翻訳市場に参入する翻訳者がますます増える結果を生んだ。

 

翻訳の伝統と現代

 中国の翻訳史は中国文化の軌跡とともに歩んできた。過去の翻訳活動はそれぞれ時代の移り変わりと文化的変遷の影響を受けている。古代から近世に至るまでの伝統を学ぶことにどのような意味があるのだろうか。現代の翻訳運動を例にとって考えてみよう。中国大陸では1980年代から大きな翻訳ブームが始まった。これは主に社会科学関連の書籍を中心とする翻訳ブームだが、古代の翻訳活動と共通点を持っている。すなわち、出版や翻訳を企画決定する側には外国語の原文を理解する語学力のある者がほとんどいないことである。また彼らは翻訳は単なる手段に過ぎないと割り切っている。最大の目的は、より多くの若い読者を教育啓蒙することである。このため、テーマの選択、翻訳の方法、翻訳の基準もすべてこの目的を達成するために奉仕しなければならない。このような観察によって、1980年代の中国の翻訳活動は清朝末期のそれと非常に多くの共通点があることがわかる。かりに、我々が過去重数世紀の中国文化が外来の翻訳者を受け入れてきたことで、新たな変容を繰り返してきたことを認めるとすれば、そしてこのような過程がいまも絶えることなく継続していると考えるなら、現在の状況を考察する上で過去を振り返り研究することは決して疎かにできない。             

以上  

 

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