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『通訳理論研究』8号掲載

 
     話 し 手 は な ぜ 通 訳 者 に 話 す の か

          −逐 次 通 訳 の 場 合 −

                                  永田 小絵

 通訳者が介在することによって話し手と聞き手の対人コミュニケーションはいかなる影響を受けているのだろうか、というテーマに関して考えていきたい。
 今回の内容は「話し手あるいは聞き手が通訳者のほうを見てしまう心理は?」ということである。

 
【執筆の動機】逐次通訳の際に話し手がしばしば聞き手のほうではなく通訳者に向かって話をすることに気づいたこと。自分自身の体験だけでなく、偶然テレビで見た番組で中国側の要人がインタビュアーが目の前にいるにもかかわらず、後ろの席に控えた通訳者のほうへ不自然に首をねじ曲げながら話していた。
 実際に言語情報を伝達すべき対象は言うまでもなく聞き手であって通訳者ではない。しかるに話し手はしばしば通訳者に話しかけ、聞き手との直接的コミュニケーションを避けているかのような印象すら受ける。当然のことながら、異なる言語を話す両者間では、言語情報の直接的なやり取りは不可能であるが、情報伝達において相当の役割を果たすと考えられる非言語情報が聞き手に伝わらない限り、しかもそれが通訳者の介在によるものであるとすれば、ある側面においては「通訳者の存在が対人コミュニケーションの阻害要因となっている」のではないかとの危惧も持たれる。

【どのようなアプローチを取ったか】これは「話し手の心理」に関わる問題であると考えたので、報告者は解釈を求めるために、パソコン通信の心理学フォーラムに参加し、心理学の専門家との対話を通じて様々な啓発を得ることができた。

【ご協力いただいた方々】本論の執筆にあたって、パソコン通信ネットワークNIFTY−Serve心理学フォーラムの社会心理学会議室の皆さん、とりわけ小橋康章さんと川上善郎さんのお世話になった。また小論の執筆に際して通信内容の利用を快諾してくださったことに感謝したい。お二人は私が投げ掛ける疑問に対して実に丁寧に解説してくださった。このような協力がなければ、この報告が本誌に掲載されることもなかっただろう。

本論は基本的に問題提起とそれに対するコメントという形式になっている。両氏のコメントについては、それぞれ(小橋)、(川上)として明らかにした。また、永田の発言に関しては本文を執筆中にかなりの部分を加筆している。


 ◆「そんなに通訳者が気になるの?」

 通訳業務を行っていて、非常に気になることのひとつに、肝心の聞き手がよそを向いていても、平気で通訳者に向かって話をする話し手が多いということがある。
 また、話しはじめる前にいちいち「通訳さん、ちょっと訳してください」と言う人もいるし、話が一段落ついたところで必ず「どうぞ」と通訳を促す話し手がいる。
 通訳者の意識としては(当然のことながら)話し手は聞き手に向かって情報を伝達するものであって、通訳者はコミュニケーションの主役ではない。
 ●通訳者に向かって話しかける、
 ●「通訳さん、ちょっと訳してください」といちいち頼む、
 ●「どうぞ」と通訳を促す、
 数人の通訳者に尋ねたところ、皆同様の経験を持っており、このような話し手はやりにくくて困る、と口を揃えた。
 私は自分に向かって熱心に話しかける話し手に対して、かつて一度だけ「私は通訳者ですから、相手のほうを見て話されたほうが良いのでは」と注意したことがある。話し手はかなり困惑した様子でしばらくは聞き手のほうを向いたが、長くは続かなかった。
 話し手は、何故このような態度をとるのか、或いはとらざるを得ないのか。
 一般的な対人コミュニケーションの場合(つまり、双方共に同じ言語を話す場合)、話し手と聞き手の間にあるのは「空気」である。音声化された言語情報は空気の振動によって伝達される。さて、通訳者は「空気のような存在であれ」と言われる職業だが、話し手や聞き手に確かにそこに存在することが認知されてしまうのだから、所詮空気のような存在ではあり得ないのではないか。
 だが一方では、聞き手をしっかり見ながら(通訳者がいても、あたかもそこにいないように)話す話し手もいる。「通訳者に向かって話す話し手」と「聞き手に向かって話す話し手」の違いは何だろう。

◆「気にするなって言うほうが無理でしょう」
 それは通訳者に話すほうが、話し手の心理として自然なのではないだろうか。
 通訳を介して話す訓練ができていない話し手である、と考えることもできる。
 普通、対話の際には聞き手の顔色を見てノン・バーバル・キューを使いながら話しているとすれば、言葉毎に表情で反応してくれるということが重要になる。 しかし、通訳者が必要となる場面では、話し手の伝達する言語情報を聞き手に直接届けることができないので、聞き手はすぐに反応を示してくれない。しかも自分の言葉に反応してくれる通訳者が目の前にいて可視であるのだから通訳者に向かって話すことは避けられないのでは?
 通訳で話す訓練ができていないとすると通訳を一種の仲介者、つまりメッセンジャーとして見るほかなく、その結果があからさまに通訳に向かって話すというスタイルになるのではないだろうか。話し手や聞き手が通訳者のほうばかり見る情況は、
 ●「逐次通訳」の場合で、通訳者がそばにいて可視である
 ●コミュニケーションの当事者が通訳を使い慣れていない
 ●話し手が通訳者の理解度に確信が持てない
 ●通訳者をメッセンジャーとして見ている
 ●聞き手との間に言語の壁があって、すぐに反応が見られないので不安
 以上のような条件の全部または一部があると、話者は聞き手よりも通訳者のほうを見て反応を確かめつつ話すということになると思う。とにかく通訳者が可視である以上、「空気」のように見做すことは至難のわざであるように思える。(小橋) 

 メディアとしての通訳と、とらえることもできるだろう。話し手は「通訳者」に向かって話しているのではなく「メディア」に向かって話しているのだ。相手に確実に伝えたいと思ったときに、メディアに自分の声を吹き込むことがいちばん大切なことだと考えるにちがいない。メディアに伝わらなければ、相手に伝わるはずがないから。
 「通訳さん、ちょっと訳してください」といちいち頼むのも、同様におそらく非常に普通の反応なのではないか、という気がする。
 上記のような解釈の延長上でいうと、電話やコンピュータを使うのと同じで、何か起動開始の合図が要るという感じ。通訳の場合は録音ボタンを押すような感覚だと思う。
 メディアには、つねに制約がある。自己能力の拡大であると同時に、一定の制約が存在するところに特徴がある。通訳というメディアには、どのような制約があるのかが議論される必要があるのだと思う。通訳者がメディアだとすれば、ワープロを使っていて誤換文字がでたときの、私たちの反応を思い出せば通訳者が自分の言いたいことを察してくれない場合には腹が立つこともあるだろう。
 我々はメディアの限界をついつい誤解してしまう。(川上)

◆「でも、表情や声色は伝わっていかないのに」
 ここで同時通訳と逐次通訳の根本的な相違についても考えてみよう。
 同時通訳のとき通訳者は話し手からは見えないところにいて、話し手と聞き手はお互いに向かい合っているので、相互に非言語メッセージを受けとることができる。つまり、話し手が発信しているメッセージに含まれる、1.言語、  2.パラ言語、  3.非言語が普通の会話ではうまく同時に伝達されているのとほぼ同じ状況が再現される。もしかしたらこれは一種のバーチュアル・リアリティーと言ってもいいかもしれない。しかし逐次通訳だと言語情報だけが時間差でデリバリーされるという妙な事態になる。 先に2.と3.を受け取って、あとから1.と統合するなどということを一般の聞き手がしているのかどうかは非常に疑問であるが、話し手が聞き手を無視してメッセンジャーである通訳者に向かって話すのであれば、話し手の2.と3.は(聞き手がその様子を注視していない限り)永遠に伝達されないことになる。それに通訳者に向かって話すのと、実際に聞き手に向かって話すのとでは、自ずから表情や動作も違ってくるだろうという気がする。また、そのような話し手の情報を通訳者が聞き手に伝達する時には、聞き手が受信する2.と3.は通訳者のそれになってしまっているはずである。
 これは通訳者が責任を負える範囲の問題ではないと思うし、もしこのような伝達状況であるのならば、話し手の聞き手に対して伝えられるべきメッセージは、結局は一部しか伝達されないはずだ。するとやはり、言語情報以外の面では通訳者の存在というのはコミュニケーションを一部阻害しているのかも知れない。 

◆「非言語情報は異文化間でも伝わるものなのかどうか」
 非言語情報が異文化間の接触でも正しく伝達されると考えていいのだろうか。パラ言語というのはある言語に特有の約束事にしたがって使われるはずである。例えばその言語の標準的トーンや間のおきかたから意図的にはずれる、といったこともパラ言語のメッセージになるのではないだろうか。もしそうだとすると中国語を話す人が日本語に付随するパラ言語を理解できるという保証はない。非言語メッセージはさらに文化に依存し、頭を横に振るのがイエスのこともある。こういうことこそ通訳してもらえないと通じなくて、しかも通訳者がバーバルな部分だけで充分忙しいとすると、これはバーチュアル・リアリティでも使ってジェスチャーからジェスチャーへの翻訳を行わなければならないのかもしれない。(小橋)

◆「通訳者は空気のような存在、と言われ続けて」
 空気のようであれという、理想の通訳者像に疑問を抱いてしまった。「空気のような存在」は通訳者の頭にすり込まれているキーワードだ。通訳養成校で訓練を受けるときにも、通訳者のエッセイでも、しばしば提起されていることだが、自分の身に照らして本当に「空気」であったことがあるのか、と改めて考えてみると、いかにも心もとない。さて、話し手や聞き手にとって自分が「空気」のようであったかどうか、これも実際にはわからない。我々は教師から、通訳に関する書物から、次のような教示を受けてきた。
 ●通訳者はコミュニケーションの主役ではない。
 ●しかし、通訳者がいないとコミュケーションは成立しない。
 ●通訳者が介在するコミュニケーションは本当は理想的ではない。
 ●君たちは「黒子」である。とても上手な通訳は「空気」である。
 この問題に関して英語同時通訳者の西丸千、村松増美氏の著作から引用してみよう。

−−−理想は透明人間
 (著者がヨーロッパで、イタリアの労働組合の幹部と、通訳者を介して話し合ったときの様子を述べて)。ところが、そのときの通訳者については全然記憶にない。通訳者は私たち二人の英語とイタリア語を逐次通訳したが、それを能率よく流暢に行った。おかげで話し合いはきわめて円滑に進行した、記憶にあるのは、このイタリア人のイタリア語を私は直接理解しているような錯覚におちいっていたことぐらいである。 (さらにドイツ人と英語−ドイツ語の通訳者を介して話し合った例をあげ)、通訳してくれたドイツ人のことはまるで記憶に残っていない。ただ、ドイツ語が流暢な英語に訳されて、話がきわめてなめらかに進行していたということだけをおぼえている。 通訳者とは、結局そのような人間だと思う。透明人間のように、そこに確かにいて通訳はしているが、対話者同士には直接話し合っているような印象だけが残って、通訳者の存在を忘れてしまうことができるのが理想である。(西丸千『英語の通訳』)−−−

 このとき、イタリア人の労組幹部やドイツ人と西丸氏は、互いに視線を交わし、相手の様子を観察しながら話し合いを行ったのである、と私は断言できる。でなければ、直接話し合っているように感じることは無理だろう。話し手と聞き手の協力がなければ通訳者は透明人間にはなれない。次は村松氏の著作からの引用。

−−−よく通訳は歌舞伎の黒子と同じだといわれますが、まったくそのとおりで、黒子が前にしゃしゃり出てしまっては舞台は台なしです。黒子には黒子なりの仕事があるわけで、しかも黒子がいなくては芝居が展開していきません。(村松増美『私も英語が話せなかった』)−−−

 通訳者養成訓練校の受講生に対するアンケート調査* の結果でも、通訳者を「黒子、縁の下の力持ち、空気のような存在」というイメージでとらえている人は多い。「あなたが考える通訳者のイメージに最も近いものをひとつだけ選んでください」という設問に対する回答を集計したところ、次のような結果が得られた。
  「歌舞伎で言えば黒子、縁の下の力持ち或いは空気のような存在」  21.6%
  「情報の媒介者、メッセンジャー」                21.6%
  「異文化間コミュニケーター(文化のかけ橋)」          18.9%
  「専門技術を有する職人、特殊技能を提供する職業人」       16.2%
  「語学の達人(留学経験者、バイリンガル、ことばの天才)」    13.5%
  「コーディネーター、日本人と外国人の仲を取り持つ人、民間外交官」 8.2%
  「非常に精巧な音声翻訳機」                     0%

 「通訳者は黒子である」というのは「存在しないという暗黙の約束がある」と考えてもいい。しかし、話し手から常に意識され、話しかけられる状況は「黒子」や「空気」とは正反対ではないか。それとも理想的な通訳者になれば空気のような存在になるとでもいうのだろうか。もしも、通訳者が突然透明人間になったら、通訳者の反応を確かめつつ話をすすめてきた話し手はひとり置き去りにされてしまうのか、それとも聞き手と直接コミュニケートしているかの如く(バーチャル・リアリティー)感じられるのか。 「通訳者に向って話す人は嫌い」と通訳者が言うのは、特に宴会などで同じテーブルに多くの人がいる場合には誰に向って話しているのかわからなくなる、とか聞き手も自分へのメッセージであることがわからないので他の人と話しはじめたりする、通訳者自身が聞き手に対して話しかけたのかと誤解してしまう等、具体的な困難もある。しかし、要するに話し手と通訳者の対人コミュニケーションから通訳者と聞き手へのそれへ移りかわる伝言ゲームになってしまい、話し手と聞き手の直接的関係が築けないことを危惧しているのだ。
 通訳者の介在でコミュニケーションを阻害していたことばの問題が解決しても、話し手や聞き手があまり通訳者の存在を意識するとかえってコミュニケーションのじゃまになるのではないか。だから通訳者は無視されたほうが、却って仕事としては成功したと言われるのではないだろうか。
 ただ、これは通訳者が一方的に心配しているだけかもしれない。肝心の話し手と聞き手が通訳者に対して空気となることを求めていないとすれば、我々は一体何を教えられてきたのか、という奇妙な思いにとらわれてしまう。通訳者と話し手・聞き手の間にもコミュニケーションーギャップがありそうである。

◆「人間が空気になることの意味」
 空気のような存在、とは通訳者はまるで忍術使いのようである。通訳者が「黒子」とか「空気のような存在」たれと言われることについては、おそらく通訳者も初心者のうちは必要以上にでしゃばったり、話者に対して優越感をもったりする危険が大きいと考えられているのではないだろうか。実際にそういう人が沢山いるというのではなくて、そうしたことがあったときの被害が大きいから気にするのだと思うが。
 話すのが嫌いな人は外国語会話がなかなか上達しないし、話すことを主な内容とする通訳という職業に喜んでつくとも思われないが、いま問題にしている通訳つき会話に慣れていない人、は外国語をひとつも話さないばかりか、自国語でもそれほどコミュニケーションが得意でない人が多い。そのことで人間の価値が問われるわけではないが、話せない人は話せる人に劣等感をもつかも知れない。逆に、話せる人は話せない人に対していわれのない優越感をもつかも知れない。それはどう考えてもチームワークの助けになるとは思えないから、通訳についての上のような教示はこうした問題への手当をめざしているのではないだろうか。
 さて、「空気のような存在」となることは、通訳者側の主観的な体験としてわかるような気がするが、この状態の通訳者は話し手にとって不可視ではない。臨床心理の人たちが人間は「コミュニケートしない」ことはできないと言うがそこに居てあたかもそこに居ないがごとく他人が振る舞ってくれるようにする技術というのはそうとう高級な忍術だ。話し手にとっては自分の言葉を理解してくれる唯一の人間である通訳者が、もしも突然「空気」になってしまったら、と考えるだけでも恐ろしい。または、話し手と通訳者が共通の目的(聞き手へのメーセージ伝達)のために一体化している状態が作り出せれば、通訳者は話し手の自己の一部となり存在が意識されなくなる可能性は大きい。すると一体化した話し手+通訳者が非自己である聞き手に語りかけるということになるだろう。(小橋)

◆「こんな実例もあります」

 二人は解りあえるのだろうか。次に面白い実例を紹介したい。
1.日本人と中国人がふたりでメモ用紙を前に筆談している。ことばは通じないが、時どき笑ったり、感嘆の声をあげたり、相手を見ながら和気あいあいと楽しそうである。 「漢字」がふたりの仲をとりもってくれているのだ。私が別の用を終えてそちらへ近づいて行くと、二人は同時に「あー、助かった!」と叫び、伝言ゲームが始まった。
 つまり、話し手も聞き手も通訳者のほうばかりを見て、まるで通訳者に向かってばらばらに訴えるような形で対話を行うことになってしまったのである。 何だか、私よりも「漢字」にまかせておいた方がこのふたりは仲良しだったみたいな変な感じ。「自己」と「非自己」という言葉で考えると、この二人にとって自分がメモ用紙に書いていた「漢字」は明らかに「自己」の一部であるが、通訳者は「非自己」に他ならない。通訳者が話し手の「自己」の一部として認識されればコミュニケーションの齟齬は生じないと言えるのだろうか。 また、聞き手にとって話し手と通訳者が「ワンーセット」として認識される可能性はあるのだろうか。そこで次は聞き手の反応の話。
2.会議が終わって中国人の観光につきあわされた。
  A:中国人、B:日本人1、C:私(通訳者)の3人が一諸に都内観光して、夕方ホテルにもどると、夕食を共にする予定のD:日本人が待っていた。その時の会話。
  D:Aさん、今日はどこへ行きましたか。
  C:(通訳する)
  A:君はずっと私と一諸にいたのに、なんでそんなこと聞くのかね?
  C:(え?!Dさんは一諸じゃなかったのに)と一瞬混乱する。
 次の瞬間、「あ、Aさんの言ってる[君]って私のことだ」と気づき、「Dさんがお聞きしてるのですよ。」と言う。すると、何と!
  A:君から説明してやってよ。
 Dは明らかにAに向かって今日はどこを観光したのかを尋ねたのであった。Cは通訳した時には自分の存在を意識していなかった。つまりDとCはある意味で一体化している(Dは通訳者Cを自己の一部として用いている)。しかしAはDから質問を受けているのではなく、Cに話しかけられたと思った。AにとってDとCは完全に独立した人格として存在している。聞き手も話し手ではなく通訳者のほうを見ている。三者二言語コミュニケーションの中心が通訳者になっているような状態。
 上述の二つの例から考えると、interpreter はinterrupter と呼んでも構わないような存在である。
3.セミナーの通訳業務。数十人の聴衆は全員中小企業の社長。会議の主催者から「皆さんは分からないことがあっても質問しないから、適当に解説を付けて通訳してくれ」と頼まれた。最後には社長さんたちが互いにブツブツと話していることに聞き耳をたてて、質問したいらしいことを察してゲスト・スピーカーに伝えて説明してもらうということをした。ここでは通訳者の役割がかなり拡大されている。「よくわかった。雰囲気もよかった」と言われたが、そこまで期待されたくない、と少し腹が立った。しかし、話し手と聞き手のよりよいコミュニケーションまで考えてしまうと言語の通訳機械ではすまなくなる。「通訳のよしあしで会議のムードがまったく変わる」とは、よく言われるが、これはむしろ「コミュニケーション・コーディネイター」ではないだろうか。
 実際、ある会議で渡された名札には、「通訳」のしたに「COODINATOR」と書いてあった。通訳者は実際の現場ではコミュニケーションを成立させるために増幅ー補償の機能を発揮することまで期待されてしまう。

◆「通訳者はコミュニケーション支援者」
 コミュニケーション支援者としての、通訳者への役割期待について。
 これまでは気づかなかったが、通訳はすぐれて支援的な仕事のようだ。
(1)コミュニケーションがうまくゆくようにとの「意図」を明確にもって行われる。
(2)既に行われつつある行為に対して、あとからつけ加わる二次的な行為でもある。
(3)知識を獲得したり精製するすることによっていままでよりうまく行なうことができる知識依存的な仕事でもある。
 こうした性格が通訳という仕事の特殊な難しさを生みだしているのだろう。
 さらに考えてみれば通訳者とはインタフェースにほかならない。インタフェースをどうデザインするべきかという問題と、どうしたらよりよい通訳者でありうるかという問題は密接に関連していると思う。インタフェースのデザインに関する研究と通訳の研究とのあいだに、なにか参考にしたりされたりの関係が生まれてもいいのではないか。(小橋)

 通訳をコミュニケーション支援的な仕事であるとか、文化を伝達するメディアであるとか考えれば、海外旅行に行くとガイドのことを「通訳」と呼ぶ人が多いのも理解できる。「通訳」を通して、「言語」を「翻訳」してもらっているのではなく言語が表現している「文化」を通訳を通して手にいれているとするならば、「ガイド」は、「通訳」の本質的な機能(受け手が想定するものだが)を実現していることになる。
 ここまで書いてきて、通訳は言葉を訳しているという前提がくずれていることに気がついた。異文化をみる眼鏡といったところだろうか。(川上)

◆「通訳者の仕事は理解されていないと言いたくなるけど」
 通訳は異文化接触の場面においては常に必要とされてきたはずである。しかし、日本は昔から「言あげせぬ国」という、話さない文化を尊重してきた。すると、日本の通訳者は日本の伝統文化に逆らうことをしていることになるし、日本語のスピーチは、どちらかといえば、ハイ・コンテキストであればあるほど高級のように思われるから、通訳者にとって日本は環境の良くないところだ。
「先生のお話は奥が深くて通訳するのに苦労しました」と言われて喜んでいるスピーカーは結構多い。 「通訳者など信用できない」という人も、「大したものですねえ」と手放しで感心する人も、どちらも通訳という仕事の中身を正しくは理解していないように思う。
 しかし現実には通訳付きの会話を体験するのは普通の人にとっては極めて稀なことだ。通訳を介して話をするチャンスが一生に一度あるかないか、という普通の人々に対して、通訳という仕事の本質を理解しろというほうが、元々無理な注文だ。 通訳者はともすれば話し手や聞き手を、通訳者の都合が良いように啓蒙することばかりを考えがちであるが(実際は確かに通訳者にとって仕事がしやすい環境であることが相互のコミュニケーションに最良の効果を生み出すことに直結するのだが)、最近のように国際交流が特別な選ばれた人々だけのものではなくなり、一般のごく普通の人たちが外国人と接触する機会が生じている状況では、一人一人の話し手や聞き手を説得するのは、あまり現実的とは言えない。仮に説得に成功したとしても、その人は二度と再び通訳付きの会話を経験することがないかもしれない。
 通訳者がこの事実を認識し、話し手と聞き手に配慮することは重要である。時には言語情報の伝達以上の支援を求められるかもしれないが。
 一方、私の商社でのイン・ハウス通訳としての経験から言えば、商社マンは通訳付き会話になれていて、しっかり相手の目を見ながら交渉を進めていた。もちろん、これはいつも同じ通訳者を使っているので、通訳者と話し手の信頼関係がすでに築き上げられていて、いちいち通訳者の顔色をうかがって話を理解したかどうか確認する必要がない、という理由もあると思う。また、インーハウス通訳者は業務の内容に精通しているので取り上げられている話題に関しては話し手の自己の一部となれるだけの知識を有しているとも言えるだろう。
 ただし、非科学的な言いかたで気がひけるが、たぶん通訳者をメッセンジャーとして扱うような商社マンは「営業センスがない」といわれてしまうだろう。「営業センス」というのもコミュニケーション能力のひとつではないだろうか。対外交渉のような異文化接触の場においては、時として「言挙げせぬ」日本文化が意味を失ってしまうのだ。ここで必要なのは相手と正面から向き合って直接の対人コミュニケーションを展開すること、相手の目を見ることである。そして通訳者は話し手の自己の一部として聞き手に「いかにして伝えるか」を聞き手の文化の中で考える。通訳者は言語記号のデコーダーではないと思う。

◆「コミュニケーション成立の危うさ」
 対話の成立は簡単なことではなく、コミュニケーション自体が危うい場合が多い。 価格の交渉のような言葉がよくわからなくても対話が成り立つ関係においては通訳は歓迎すべきプラスアルファだ。それは話者の能力の自然な拡張で、話者が自由に制御できる存在、ツールであると言ってもいい。商社での貿易交渉のような場合は最初から目的と戦略があるので対話の成立は全く困難を伴わないだろう。
 しかし対話の成立自体が危ぶまれる状況が我々の身の回りには沢山ある。そこでの通訳者の役割は,上の例とは相当違ったものにならざるをえないだろう。もしかしたら遠くない将来,通訳という職業が「超高級翻訳ツール」(ことばを置き換えるのでなく意味を伝達する)と「会話コーディネイター」に分化していくことはないだろうか。
 「超高級翻訳ツール」(ことばを置き換えるのでなく意味を伝達する)としての通訳者の機能はやがてなんらかの装置に置き換えられていきそうな気もする。最後まで人間の手に残るのは、皮肉なことにもっとも通訳翻訳が難しい文学や「気持ち」の伝達の仕事なのかもしれない。
 コミュニケーション支援の需要はわたしたちが思っている以上にあるのではないだろうか。実は外国語を使わない場面でもコミュニケーション支援が必要なことはいくらでもある。おそらく人間はほっておくとコミュニケーションが容易に行なえる範囲に交際を限るだろう。しかし社会が複雑化した今日、学校だ会社だセミナーだ国際交流だという具合いに、難しいコミュニケーションも避けられない事態になってきた。またコミュニケーションが不得手な人は外国語を使うかどうかに関わらずどんな社会にもいる。
 しかし彼らも森の中で自然だけを相手に暮らすわけにはいかない。自分の作った装置を顧客に説明しなければならない場合も、パーティに出席しなければならない場合も出てくる。ただでさえ難しい外国語がからんでくるとこうしたコミュニケーションの困難は倍増するが、幸か不幸かそこには時として通訳者という「合法的な」支援者がいる。日本人同士のコミュニケーションに「会話コーディネイター」にせよ何にせよ支援者を導入するのはそうとう度胸がいるが、外国人が相手なら問題はない。そこでコミュニケーションの当事者は“彼らが" 必要としている支援機能を通訳者に託すが、その中身は通訳者が伝統的に受けてきた教育訓練の目標や内容とかなり違うらしい。
 このへんに通訳者の苛立ち(?)の原因があるし、一生のあいだに何度も通訳つき会話を経験しないであろう多くの一般ユーザの戸惑い(「通訳者が自分の気持ちを察してくれないと腹が立つ」も含め)の原因もあるのではないか。(小橋)

◆「言語を訳すのか、文化を訳すのか」
 言語を訳すのか、文化を訳すのかという問題。対話通訳の二重の役割について。 観光ガイドを(何も訳していないのに)「通訳」と呼ぶ人が多いのは、「通訳」を通して、「言語」を「翻訳」してもらっているのではなく言語が表現している「文化」を通訳を通して手にいれているという考え方が示された。
 昨年創刊された"Perspectives: Studies in Translatology"なるジャーナルでは翻訳と通訳の両方が扱われている。その第1巻第1号にCecilia Wadensjo氏が「対話通訳の二重の役割」(The Double Role of a Dialogue Interpreter.)という論文を寄せている。
 要約によると、対話通訳("dialogueinterpreting,")はスウェーデンのシステムで通訳が文化的媒介者(cultural mediator) になるのだという。この論文では社会的文脈の中で聞きまた話すこと、そして異文化間の対話をモニターしそこに貢献するため、話されたことをいかに評価するか、こうしたことに関して通訳者が用いる方略を論じている、ということだが、はたしてわたしたちが言っている「会話コーディネイター」と同じものなのかどうか。同じジャーナルの第2号には「同時通訳技能の実証研究」(Schjoldager,A.,Empiri-cal investigation into simultaneous interpreting skills. )なる報告も載っていて、Barik 氏の時代の実験室的な研究から25年を経て、問題提起と研究の方法どう変わってきたのか、たいへん興味がもたれるところだ。(小橋)

◆「期待される通訳者とは、どういう人なんだろう」
 通訳って一体何なんだろう。通訳者は自分の仕事をどう捉えたらいいのだろうか。通訳者としての仕事は、話し手の発信した言語情報を正確に聞き手にデリバリーすることが最大の使命であると考えてきたし、訓練の課程のなかでも言葉を正しく伝える事しか教わってこなかった。
 商社の通訳の仕事の特徴は、言語情報の伝達が最も大きな部分を占める。 商社マンは原則的には英語が話せるという建前になっているようなので、英語で通じる相手なら、通訳者をわざわざ会社がつけてくれることはない。中国語のように需要が多いのに社内にできる人が少ない言語に限られる。彼らが通訳を使う時に必要としているのは純粋にことばの面だけの支援だ。そこで、商社の人たちは通訳者が優秀な「翻訳ツール」に徹することができないと(通訳がへただったり、相手に真意が伝わっていないような場合)、通訳者に対して腹を立てるが、相手との対話をコーディネートしてほしいなどという甘えた気持ちは皆無である。これで私は「翻訳ツール」としての機能をずいぶん強化されたと思う。会議通訳の仕事と共通する部分が大きい。
 ただ正確に話の意味を伝達することだけが自分の役割であれば、通訳は割合に気楽な職業かも知れない。通訳の技術を磨き、広く知識を身に付けるという苦労はあっても。会社という組織をはなれてから、自力ではコミュニケートできない人々からの「会話コーディネーター」的役割期待にとまどった。コミュニケーション支援が必要な場面に多く出会っていくうちに、ほっておけばコミュニケーションしない人たちを却って無理にコミュニケーションさせてるのではないかという妙な気分にとらわれることも経験した。両国の出席者に気を使い、共通の話題を提起して、むりにムードを盛りあげるというようなことも(心ならずも?)したことがある。しかし、これは「通訳者のするべきこと」ではないような気がして、常に疑問を感じていた。どこからどこまでが通訳者の役割なのか、とくに中国式の宴会で円卓を囲むような時が最も気疲れする。
 もうひとつ、私をひどく不機嫌にさせることは会議が始まる前や終了した後に関係者に呼び止められて「通訳さん、あとで○○さんに、“…………”と言っておいてください」と頼まれることである。彼/女はなぜ通訳者と一緒に聞き手に直接話をしに行かないのだろう。外国人と面と向かって話すのは勇気が要るからなのだろうけど、その情報を伝えたいのは通訳者ではなく、その話し手自身のはずなのに。
 しかし、コミュニケーションが不得手な人の「合法的な」支援者で、言葉であれ何であれ、ともかく両者を結び付けることが通訳者の役割だと考えることができれば、「ここまでやるべきなのか」などと心配する必要はなくなるわけだ。通訳者は「支援してほしい」という彼らの訴えかける眼差しから気持ちを察して協力すればよい。外国人どうしだろうが、日本人どうしだろうが関係ない。よく考えてみると、こういう「おせっかいな」、もう少し好意的に言えば「世話好きな」通訳者も結構たくさんいる。すると、いくら言語的能力が優れていても、他人の気持ちを察することのできない人は適性がないことになる。
 ここまで通訳者の支援的役割を期待されるとなると、私はもう辞めてしまいたいような気持ちになってしまう。最近、随行通訳を断るようになったのも、恐らく「コミュニケーションーコーディネーター」的役割期待が私には重すぎるからなのだろう。
 実際の現場で「会話コーディネーター」としての役割を期待されるのなら、通訳者養成訓練がこれまでと同様に高度職業訓練的なトレーニングにとどまり、話し手や聞き手の相互コミュニケーションとか、コミュニケーション支援という要素を通訳教育の中に盛り込んでいくことを考えないのであれば、訓練生が現場に出てから私と同じように、ある種のジレンマを感じることになるかもしれない。
 特に会議通訳の訓練ばかりを受けていると、言語情報の伝達だけを重視し、最高の技を持った通訳者(職人的と言ってもいい)となることを目標として通訳自体のことだけしか考えられなくなる。話し手と聞き手を支援する、という根本の目的を再確認するためにも通訳教育に関する意識改革が要るかもしれない。
 これまでの通訳訓練で話し手や聞き手の心理に言及してこなかったのは、もしかしたら非常に大きな問題あるいは欠落なのかも知れないと思う。前述の通訳養成校で実施したアンケート調査で「人のお世話をしたい、両国の人々のかけ橋となりたい」と望んでいる受講生が相当数いる以上、これまでの「超高級翻訳ツール」を作ろうとする訓練だけではコミュニケーションの支援者は育てられないかもしれないということにも気づいた。今後この業界で、国際会議の同時通訳者を代表とする「超高級翻訳ツール」と、よりよいコミュニケーション成立の支援者としての「会話コーディネーター」に二極分化していくことがあれば、この両者はまったく違う職業といってもいいほど距離が大きい。訓練の目標にしたがって心理学的な内容もカリキュラムに入れていくことで、更に理想的なコミュニケーションの担い手を育てることが可能になるのではなかろうか。
 この心理学会議室での対話を通じて、日頃見失いがちな視点を得られたことに感謝したいと思う。話し手と通訳者と聞き手の三者の関係について、さらに研究していきたいと考えている。