通訳翻訳論  2008.06.11日本の翻訳通訳史(2)
黒船来港、幕末日本の言語環境
明治・大正時代の翻訳事情
開国から明治へ
ペリー率いる米国艦隊の来港
オランダ語が通じないことがわかる
幕府は阿蘭陀通詞に英語を学ばせる
1853年 米国から帰国したジョン万次郎を召し抱える
1860年 米国に視察団を派遣(咸臨丸)
欧米の社会、文化、技術などが日本に紹介される
福沢諭吉の活躍
ペリー艦隊の来港
オランダ通詞と開国
フェートン号事件
1808年 長崎にオランダ国旗をかかげたイギリスの軍艦が突如侵入し、母国船と思いこんで駆けつけたオランダ商館人を人質に、飲料水や食料を要求した。
幕府は英語の必要性を感じ、長崎のオランダ通詞に英語学習を命じた。
阿蘭陀通詞の英語学習
軍人としてイギリスに駐在したことのあるオランダ人、ブロムホフが教師となり、英語学習が始まった。
1810年 通詞たちは最初の英会話手引き書『諳厄利亜興学小筌(あんぐりあこうがくしょうせん) 』を完成。
1814年 通詞たちは最初の英和辞典『諳厄利亜語林大成 』を完成。
諳厄利亜興学小筌 1810年の表記
『諳厄利亜語林大成 』 1814年
日本最初のアメリカ人英語教師ラナルド・マクドナルドの上陸
スコットランド系の父親とアメリカ先住民の母親の間に生まれる。
アメリカ先住民のルーツは日本にあると信じ、米国の捕鯨船乗組員となって日本に密航。
1848年 北海道の利尻島に上陸。アイヌ民族とともに十日間ほど過ごした後、逮捕される。
日本にはじめて上陸したアメリカ人であった。(英語母語話者としては、1600年の三浦按針・ウィリアム・アダムスが最初)
マクドナルドは長崎に護送される。
阿蘭陀通詞とマクドナルド
森山栄之助ら14名の長崎通詞が獄中にあったマクドナルドから英語の教授を受けることになる。
通詞らは『諳厄利亜語林大成』を手に、ブロムホフから学んだオランダ訛りの英語の発音矯正を受けた。
長崎に来て半年後、マクドナルドは米軍艦に引き渡され強制送還となった。別れの際に残した言葉は“Sayonara, my dear, Sayonara”。
マクドナルドは帰国後、日本が未開の地ではなく文明の開けた国であることをアメリカに伝え、彼の墓誌銘には「 Sayonara」の文字が刻まれた。
浦賀に来港した黒船
1837年 アメリカ商船モリソン号
漂流民の引き渡しに来たが、攻撃を受けて退散
1846年 アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル率いる帆船艦隊 コロンバス号・ヴィンセンズ号
米国政府派遣により通商を開くこと目的に来港するが果たせず。
1853年 ペリー艦隊来港 
蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号
帆船のサラトガ号・プリマス号
ペリーと黒船
ペリー艦隊乗組員および言語
海軍軍人(専門外交官ではない)、中国語・オランダ語が少しわかる(日本語も少々?)
ペリー提督(中国海域艦隊司令長官→「東印度支那日本海水師提督」→「特命欽差大臣専到日本國兼管本國師船現泊日本海提督」)
ウイリアムス(漢語・日本語通訳。宣教師・中国学者)
ポルトマン(蘭語通訳。オランダ人)
羅森(漢語通訳助手。中国人)
アダムス中佐(艦隊参謀長)ら[交渉の実務]
(漂流民・仙太郎サムパッチが同船、交渉には参加せず)
黒船来港の際の日本側交渉団
日本側の乗船者
中島三郎助 (浦賀奉行所与力)初日の乗船者
香山栄左衛門(同上)翌日、中島とともに乗船
堀達之助(主席通訳官)
立石得十郎(二等通訳官)
森山栄之助は奉行所詰で乗船はしてない
船内で行われた最初の交渉で米国側の強硬な態度を見て、与力の中島と通訳の堀は中島が浦賀の副奉行であるとウソをついている。
http://momi.jwu.ac.jp/nichibun/shimizu/gengo1.htm
日本側主席通訳官 堀達之助
1823年〜1894年 オランダ通詞中山家の出身
父三郎はフェートン号事件で活躍した阿蘭陀大通詞、母は唐通事の陳家から嫁ぐ。
1853年 ペリー来港時に主席通訳官を務める。
ペリー艦隊に対して最初に発した言葉“I speak Dutch”が有名。
晩年は『英和対訳袖珍辞書』を編纂
一郎、孝之、広太郎、寛之助の4人の男子がおり、五代友厚の私的通訳を務めた孝之以外の3人がいずれも通詞に。
英和対訳袖珍辞書 1866年(写真はhttp://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/eiwa.htmによる)
堀達之助(阿蘭陀通詞)の編による英和辞書


浦賀奉行所通詞 森山栄之助
1820年6月1日生まれ、父は阿蘭陀大通詞。
1848年 数ヶ月間、マクドナルドに英語の発音矯正を受け、マクドナルド送還時には通詞としてプレブル号との折衝にあたる。
1853年、ペリー来港の際には浦賀奉行所詰めの通詞として働く。
1854年、米艦隊来港の折りに英語通詞の命を受けた。
いずれの折衝においても英語の能力は通訳ができるほどではなく、オランダ語に英語を差し挟み、あとは手振り身振りでコミュニケーションするといった程度であったらしい。

米国側主席通訳官サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ
1812年、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男として生まれる。
1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマカオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在。印刷技術、中国語、ポルトガル語、日本語を学ぶ。アメリカへ一時帰国し、『中国総論』という書物を出版。
1837(天保8)年、米国船モリソン号には20代の若き日のウィリアムズも同乗していた。
1953年、ペリーとともに主席通訳官として来日。アメリカ大統領の国書を受け取るまで日米両国の実務者間では何度も協議が繰り返され、その際の通訳に当たった 。
帰国後『ペルリ日本遠征随行記』を著す。
ペリー会見の図
『ペルリ提督日本遠征記 』より
http://www.wsnet.ne.jp/~hakodate/shishi/vol1/t01/t010210.html

中国人乗組員 羅森
香港から遠征隊に参加した中国人
ペリー艦隊随行記で『日本日記』、フランシス・L・ホークス編の公式報告書「ペルリ提督日本遠征記」第二巻に次のような前書きがされて付録として採録された。 ペルリ提督の第二回日本訪問(ある中国人が記した日記) 「二度目の日本訪問に向けて中国から出航する際、通訳のウィリアムズ氏の助手として働いていた。非常に教養があり優秀な中国人〔羅森〕がほかの者と一緒に艦隊に加わった。観察眼の鋭い彼が日本訪問時に記した日誌は、教養ある中国人の知性をよく表しており、また、周囲のアメリカ人の考えに影響されない東洋人としての見解が記されているため、合衆国の読者にとっても興味深いものと考え、この巻の付録に付け加えた。」
羅森が街を歩くと物見高い庶民が次々に話しかけ、漢字の筆談で扇面に文字を書いてくれとせがんだという。
幕末日本の外国語
中国語:歴史の古い漢学の伝統によって、口語中国語は話せなかったが、漢文の筆談でかなりのことが通じた。
オランダ語:日本で唯一のきちんと学ばれていた西洋の言語。
英語:阿蘭陀通詞たちがオランダ人やマクドナルドに習ったことがあったが、スムーズに話が通じるほどのレベルではなかった。
幕末の日米交渉と通訳
ペリーは通訳としてアメリカ人ウイリアムス、オランダ人ポートマン、中国人羅森を伴っていた。
年二回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に合わなかったため、羅森が英語を漢文に直して江戸幕府役人に意志の伝達をした。
幕府側とペリー側とのやりとりは次のように行われた。
日本語←→オランダ語←→英語
日本語←→漢文←→英語
1856年 下田総領事となったハリスは赴任時にオランダ語通訳兼書記としてヒュースケンを同行している。
中浜(ジョン)万次郎
1827年 土佐に生まれる
1841年 14歳 漂流してアメリカ船に救助され渡米
1852年 危険を冒して帰国。土佐藩主山内容堂 に召し抱えられ藩校の教授となり、アメリカ文化などを講義、 坂本龍馬らに影響を与える。
ペリー来港時には幕府に呼び出されるが、米国在住であったことから正式の交渉通訳はできず、舞台裏で条約の締結に尽力した。
1860年、勝海舟率いる咸臨丸に福沢諭吉らとともに乗船し、訪米期間中は通詞や英語教授などで活躍。
英会話テキスト『英米対話捷径』 を著す。
後に開成学校(東大の前身)の英語教授となる。
通弁方 中浜万次郎
中浜万次郎像http://www.linkclub.or.jp/~shinji-h/Kanrinmaru/Jyoin/Nakahama.html
http://www.yomiuri.co.jp/inpaku/81/essayw/040.htm
中浜万次郎 『英米対話捷径』(1859)
アルファベット
「ヱー ビー シー リー イー ヱフ ヂー ヱイチ アイ ゼイ ケー ヱル ヱム ヱン ノー ピー キウ アー ヱシ チー ユー フヘー   タブリヨ ヱキシ ワイ ジー」「T」は「チー」、「D」は「リー」。「thirteen」は「サアチン」、「pretty」は「ブロテ」、「misty」は「メステ」で、[ti]の音写についてはチ系・テ系両方(長母音がチ、短母音がテとおぼしい)。
会話(漢文訓読と同じ返り点つき)
いかが ごきげんレ あなたさま よふ  ござるか   ハヲ ヅー ユー ヅー シヤァー   How do you do Sir?
いづくにて なされたかニ あなた 見一レ かれを   フハヤ デッチ ユー シー ヒム   Where did you see him?
わたくし よろこぶレことをレ みる三
  おまんの おけるをニよき うまきことに一   アイアム ハペ ツ シー ユー イン グーリ ヘルス   I am happy to see you in good health.
開国後の日本
横浜に外国人居留地を開き、多くのアメリカ人やアメリカ人に雇用された中国人が横浜に住むようになる。→後の横浜中華街のルーツ。
日本人も横浜に店を持ったり、海外との貿易に従事することが多くなり、国際交流が急激に進んだ。
一方、米国の進んだ科学技術を目の当たりにした政府は、それまでの漢学・儒学・蘭学よりも英学の振興に意を注ぐようになる。
福沢諭吉
福沢諭吉 1835-1901年
緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ
1858年 江戸に蘭学塾を開く
1859年 横浜見物で外国人にオランダ語で話しかけ、まったく話が通じないことにショックを受け、これからは英語が必要であることを実感し、英語を学び始める 
1860年 咸臨丸でアメリカに行く 
1861年 幕府の通訳官としてヨーロッパへ行く 
1864年 幕府の「翻訳御用」となる 
1866年 『西洋事情』初版出版、欧米文化を紹介 
福澤諭吉と英語
『福翁自伝』に見る英語学習への決意(現代語訳)今まで死にものぐるいで蘭学の勉強をしてきたが横浜に来てみると少しも言葉が通じない。店の看板を見てもわからない。これまで実に無駄な勉強をしてきたものだとすっかり落胆した。今我が国は開国しようとしている。これからは英語が必要になる。洋学者として英語ができなければ仕方がない。横浜から帰った翌日、これからは万事一切、英語だと覚悟をきめた。(福澤諭吉、24歳の頃のことである)
福澤諭吉の主な著書
 『西洋事情』 、『西洋旅案内』、『窮理圖解』 (科学入門書)、『世界國盡』『學問ノスヽメ』、『ひゞのをしへ』、『文明論之概略』 、『通俗民權論』、『通俗國權論』、『民情一新』 、『時事小言』 、『福翁自伝』 、『福翁百話』 、『福翁百餘話』 、『瘠我慢の説』 、『丁丑公論』
西洋事情を伝え、国民を啓蒙する目的
福澤諭吉の翻訳論
「世の中に原書が読めて翻訳のできぬ人は、唯むづかしい漢文のやうな訳文ができぬと云ふまでのことで、原文の意味はよく分つて居ることだから、其意味を口で云ふ通りに書くことは誰にもできませう。して見ればこの後は世の中の原書よみは其まゝ翻訳者になられる、そこで世間に翻訳書はふえて、其書は読み易く、何ほどの便利かしれません。翻訳書のをかしいと云ふのは、漢文のやうな文章の中にはなしのことばがまじるからこそをかしけれ、これをまるではなしの文にすればすこしもをかしいわけはありますまい」「明治七年六月七日集会の演説」(『福澤全集緒言』)より。
『幕末遣欧使節団』 講談社学術文庫
第一回遣欧使節一行 ナダール撮影 文久2年(1862) 成島謙吉氏寄贈
文久3年(1863)遣欧使節の写真(『日本人』34、明治新聞雑誌文庫蔵)
岩倉使節団
明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り、各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。
岩倉使節団の主なメンバー
岩倉具視:特命全権大使、木戸孝允(桂小五郎):副使、大久保利通:副使、伊藤博文:副使、福地源一郎:一等書記官、中江兆民:イギリス留学 、鍋島直大:イギリス留学、前田利嗣:イギリス留学、毛利元敏:イギリス留学、前田利同:イギリス・フランス留学、金子堅太郎:アメリカ留学、団琢磨:アメリカ留学 、牧野伸顕:アメリカ留学、黒田長知:アメリカ留学、鳥居忠文:アメリカ留学、津田梅子:アメリカ留学 、山川捨松:アメリカ留学、永井繁子:アメリカ留学、吉川重吉:アメリカ留学、木戸孝正:アメリカ留学、平田東助:ドイツ留学、長與專齋:ドイツ・オランダ留学
新島襄:通訳
岩倉使節団付通訳 新島襄
元治元年6月14日(1864年7月17日) 国禁を犯して函館から米船ベルリン号で海外に脱出。 21歳。
慶応元年(1865年)7月 ボストン着、アメリカに密入国。ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。
慶応2年(1866年)12月 アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。
岩倉使節団付通訳 新島襄
慶応3年(1867年) 24歳。フィリップス・アカデミー卒業。アーモスト大学入学。
明治3年(1870年) 27歳。アーモスト大学卒業。理学士の学位を受ける。
明治5年(1872年)初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可される。現地で木戸孝允と知り合い、襄の語学力に目をつけた木戸は、明治5年3月9日(1872年4月16日)から翌年1月にかけて、通訳として岩倉使節団に参加させる。

幕末から明治の文化輸入
欧米の先進技術や学問、制度を導入するためのお雇い外国人による教育
国費を投入しての視察団、留学生の派遣
庶民も巻き込んだ英語学習ブーム
お雇い外国人
幕末以降〜明治初期に「殖産興業」を目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のこと
江戸幕府や各藩、明治以降は新政府もしくは各府県、あるいは民間によって招聘された。
幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもある。
お雇い外国人 明治日本の脇役たち 梅渓昇 著 講談社学術文庫
お雇い外国人教師による教育明治六年 開成学校 理学予科の例
   
庶民も巻き込んだ英語ブーム明治時代の英語教科書の一例
Harry,     will    you   come   out
ハールィーよ あろうか  汝は  来るで  外に
 1      11     2    10   9
with  me   to   fly  my   kite?
共に 私と  可く 飛ばす 私の  凧を
8   7   6   5    3    4

数字の順番に読んでいくと、「ハールィーよ、汝(なんじ)は私の凧を飛ばす可(べ)く私と共に外に来るであろうか」
という訳文が得られる。漢文訓読の応用→直訳調(欧文脈)の形成。

このころ、英語を話す芸者が話題となり、新聞記事でも紹介されている。
翻訳による新たな概念の導入
現代日本語に不可欠な語は翻訳語
「社会」、「個人」、「自然」、「自由」など
Societyの訳語
開国初期:侶伴・仲間・交リ・一致・組・連中・社中
福澤諭吉訳:交際・人間交際・世人・交り・国
1875年1月14日付け東京日々新聞の論説
福地源一郎が「社会(ソサイチー)」とカナを付してもちいた
翻訳による新たな概念の導入
現代日本語に不可欠な語は翻訳語
「社会」、「個人」、「自然」、「自由」など
Societyの訳語
開国初期:侶伴・仲間・交リ・一致・組・連中・社中
福沢諭吉訳:交際・人間交際・世人・交(まじわり)・国
1875年1月14日付け東京日々新聞の論説
福地源一郎が「社会(ソサイチー)」とカナを付してもちいた
翻訳による新たな概念の導入
中村正直訳『自由之理』1872年の冒頭部分
ジョン・スチュアート・ミルOn Liberty 1859年を訳したもの
リベルテイ〔自由之理〕トイヘル語ハ、種々ニ用ユ。リベルテイ ヲフ ゼ ウーイル〔主意ノ自由〕(心志議論ノ自由トハ別ナリ)トイヘルモノハ、フーイロソフーイカル 子セスシテイ〔不得已〔ヤムヲエザル〕之理〕(理學家ニテ名ヅケタルモノナリ、コレ等ノ譯後人ノ改正ヲ待ツ。)トイヘル道理ト反對スルモノニシテ、此書ニ論ズルモノニ非ズ。此書ハ、シヴーイル リベルテイ〔人民の自由〕即チソーシアル リベルテイ〔人倫交際上ノ自由〕ノ理ヲ論ズ。即チ仲間連中(即チ政府)ニテ各箇〔メイ/\〕ノ人ノ上ニ施シ行フベキ權勢ハ、何如〔イカ〕ナルモノトイフ本性ヲ講明シ、并ビニソノ權勢ノ限界ヲ講明スルモノナリ。(『明治文化全集』第5巻、日本評論社、1927年)

通訳者を主人公にした小説
吉村昭の作品

『黒船』(ペリー艦隊来航時、主席通詞としての重責を
果たしながら、思いもかけぬ罪に問われて入牢するこ
と四年余。その後、日本初の本格的な英和辞書「英
和対訳袖珍辞書」を編纂した堀達之助。歴史の大転
換期を生きた彼の劇的な生涯を通して、激動する時
代の日本と日本人の姿を克明に描いた作品)

『海の祭礼』(1848年、ペリーの米航の5年前、鎖国の
ただ中にある日本に憧れて単身海を渡ってきたアメリ
カ人がいた。その名は、ラナルド・マクドナルド。海か
ら見た日本の開国風景を描く長篇歴史小説)

通訳の歴史がわかる本
『長崎唐通事』
『阿蘭陀通詞 今村源右衛門英生』
『出島』
『江戸の蘭方医学事始 阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門 耕牛』
『長崎通詞ものがたり ことばと文化の翻訳者 』
『開国日本と横浜中華街』
明治期の英学者
  福沢諭吉   新渡戸稲造   夏目漱石

来日した外交通訳官英国公使付通訳官アーネスト・サトウ
1843  ロンドン市内クラプトン(Clapton)にサトウ家の三男として生まれる
1859  ロンドン大学に進学。ローレンス・オリファントの著書*を読み日本行きを決意する
1861  18歳の最年少で日本語通訳生に任命される
1862  横浜に到着。横浜のイギリス公使館で勤務する
1865  日本語通訳官に昇進する
1872  内縁の妻・武田兼と家族を持ち、二男に恵まれる(長男栄太郎、次男久吉)
1876  通訳職の最高位、日本語書記官に昇格する
『図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官 』横浜開港資料館編 有隣堂


来日した外交通訳官米国総領事館付き通訳 ヒュースケン
ヘンリー・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken, 1832年 - 1861)
オランダからアメリカに渡り、1856年に初代総領事タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)に雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた
1861年1月14日にプロシア使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去。28歳没。
『ヒュースケン日本日記』岩波文庫青木枝朗訳