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1999年6月12日に行なわれた特別講演会「通訳者の手帖」を4回にわけて掲載しています。
(無断転載はご遠慮下さい。) 

Dプロ公開講座・特別講演会 「通訳者の手帖」講演録(2)

次になぜ通訳が必要なのかという問題に入りたいと思います。           

 小学校から英語を勉強させようということを文部省が考えていています。世界中の誰もが英語を話せるようになれば英語だけでコミュニケーションが可能になるから一番便利だということを考える人もいるのです。どこかの英会話の学校のポスターにも「英語が話せれば10億人と話せる」というようなことが書いてありますね。     

 英語が世界の共通語になったら、それでもういいのかっていう疑問もあると思います。今はもうほとんど忘れられているけれども、人工的な言葉としてエスペラントっていうのがありました。これが日本語の音声言語としての世界共通語になれば、便利じゃないかっていうことだったんですね。                   

 言葉というのはその根本的な性質からいうと自然に生まれて育っていくもので、人為的に作られるものではないです。一つのシステム、体系で言葉を作っていくことは、まだ人類には不可能ではないかと思います。かといってある一つの民族の言語である英語を世界共通語にするかっていうとそれもまた不可能なんですね。なぜかというと日本人のこんなに長い歴史の中で、日本語を生み出して育ててきた。ということは、私たちの民族の歴史が日本語の中に全部入っているのですね。民族の文化、民族の歴史、伝統とかが一つ一つの言葉に全部入っているのです。それを別の言語に置き換えるっていうことはできないし、また一生懸命習ってどうにかしゃべれるようになったとしても、自分の考えを100%、すべて完璧に表すようにはならないですね。  

  母語と外国語っていうのは本当に大きな違いがあります。その違いの一つの例として、我々は自分の母語だったら、何か新しいものを見たときに、その新しい事柄やものに対して名前を付けることができます。でも外国語ではどんなによくできても新しい言葉を生み出すことはできないんです。それで、これが「翻訳不可能説」というのにつながっていくのですが、私たちが自分の母語を使うときに持っている長い歴史とか、非常に厚み深みのある文化というものが、一つ一つの言葉に全部くっついているからその言葉を何か外国語に置き換えたときに全部担わせることができない、ひとつひとつの言葉にはそれだけ深い意味があるから翻訳は不可能である、っていうふうに言われます。                                

 特に文学作品なんかではそういうふうにいわれるんですよね。ちょっと例を挙げますと「夕鶴」というお芝居をご存じですか。鶴が自分の羽を抜いて旗を織って反物にして恩返しをする「鶴の恩返し」っていうお話ですよね。その脚本をフィンランドとかスウェーデンとか、あっちの方の言葉に翻訳した人がいます。日本語のよくわかる外国の人なんですが、ただすごく大きな問題が出てきました。というのはその方の国の言葉が、男性名詞、中性名詞、女性名詞って分かれていて、鶴が男性名詞だったのですね。そうすると鶴の恩返しの「鶴」が彼らの国の人にとっては男にしか思えないから、どうしたかというと全部「鷺」に書き換えたっていう話があります。だからたまには、その文化によっては日本人が「カラス」と言っているものを「鶴」と言わなくてはならないかもしれないんですよね。そういうふうに翻訳は不可能なんですね。                                  

 それで、我々は、自分の母語を話すときに、非常に自由に話してますね。でも後から習った言葉というのはそれほど自由には話せないのです。私は、中国語の仕事を15年くらいやってるんですけれども、ずーっと通訳や翻訳の仕事をしていて、たいていのことは通訳できると自分でも思うのですけれども、それでも、中国語では表しきれないものって絶対あるんです。中国人と自分と話しているときに、そのときの力関係っていうのがやっぱりあるんですよ。使う言葉によって力関係って決まってくるんですね。圧倒的に母語話者の方が有利でしょ?

 外国語を話す人っていうのはいつも不利な立場に置かれてしまうんです。そうすると例えば小学校の高学年ぐらいから英語を習わせたとしても、英語を無理に使わせたときに、まあ、無理じゃないかもしれないんですけれども、とりあえず英語の母語話者とコミュニケーションをとろうとさせたときには、我々の方が圧倒的に不利な立場に置かれてしまうんですね。絶対的に英語母語話者の方が英語はうまいわけです。 

  それから、世界の人が全部英語を習うとしたら、例えば日本人と中国人が英語でしゃべり、コミュニケーションできるとしても、それが両方にとっての母語じゃなくて両方にとっての外国語なので、どうしても表しきれないところが出てきます。外国語同士の会話っていうのはどうしても機能とか表面的なものにとどまらざるを得ないですね。                                  

 ということは、言語というのは人間にとって一つの大きな人権の一種、権利の一種ということがいえると思うのです。昔、日本でも、日本人は日本語ばかりを使って言語的な押しつけをされたことがないのであまり気にしない人が多いんですけれども、日本人が日本語を少数言語の人たちに押しつけた歴史っていうのはすごく多くあるんですよ。沖縄とか、北海道のアイヌの人たちは元々は日本語とは別の言語を話しています。沖縄方言っていうのはまだ十分生きているけれども、アイヌの言語っていうのは本当にもう少なくなってしまって、もしかしたら言葉自体がなくなってしまうかもしれない。それはなぜかっていうと日本人が日本語を押しつけてきたからです。子どもの時から小学校から日本語を、まあ話す先生に教えさせてですね、アイヌ語をしゃべると、「私は方言をしゃべりました」っていう札をここに下げさせたりしたんですね。同じことを日本人は韓国と台湾でもやってます。            

 台湾のことを言いますとね、私はちょっと1年ぐらい台湾にいたので、よくそんな話を聞いたんですが、まだ、今65歳以上ぐらいの人っていうのはまだ日本語が母語なんです。日本が植民地統治していたときには全部日本語で教育を受けています。その後、第二次世界大戦が終わった後、台湾には中国から国民党が渡ってきて日本が追い出されたんです。そうしますと中国大陸から来た人たちっていうのは今度は中国語の標準語である北京語を押しつけるんですね。それで、台湾の人っていうのは世代によって使える言葉が分かれてしまったんですよ。元々台湾にある言葉っていうのは台湾語です。福建語っていう言葉なんですが、台湾語と一応呼んでおきます。台湾語をしゃべっていた人たちは日本語を押しつけられて、日本語がなくなったと思ったら今度は北京語を押しつけられたのです。ということで、今台湾で問題になっているのはおばあちゃんと孫の間で話が通じないっていう状況です。それで台湾で少数言語を保護しようということで小学校から少数言語のクラスを作るようになりました。    

 現代でもね、今は言語学的にいうとどんな言葉でも優れた言葉もないし劣った言葉もないっていうのが通説にはなっているんだけれども、それは文化的な側面から見た話であって、言語学者はどんな小さい言葉でも優れているのもないし劣っているのもないっていうことを言いますが、しかし経済的な立場とか、政治的な立場から見ると、やはり強い言葉と弱い言葉っていうのがあります。優れている、劣っているでなくて強い言葉と弱い言葉はあるのです。                    

 2年前の7月1日に香港が中国大陸に返還されたことを覚えてらっしゃると思いますが、そのときに、私は通訳に行っていて香港返還記念式典の同時通訳をしたんですが、香港というのは、北京語とは別の言葉を話してるんですよ。全く通じないです。同じ中国語圏ではあるんですけれども、北京語と広東語の間っていうのは全く通じない言葉です。日本語と沖縄語ぐらい違うんです。それなのに香港で行われたその返還記念式典がすべて北京語で行われました。                   

 香港っていうのは皆さんもご存じのようにイギリスの植民地でしたね。イギリスの植民地から中国大陸に返還されたんですが、香港の人にとって言語というのは母語が広東語で第二言語が英語なんですよね。英語ができないとちゃんとした職業に就けないので、英語も小学校から勉強している。でも家庭や町では広東語を使っている。ほとんどすべての人がバイリンガルの状況の場所なんです。           

 ただ彼らにとって北京語というのは全く必要のなかった言葉ですね。なぜ必要がなかったのかっていえば、政治的、経済的な意味からです。それを中国大陸が香港を回収したから、自分たちのものにしたから、復帰させたので、今度は、北京語が必要になってくるんです。                             

 ですから理屈から考えると言語には優劣はない。でも今のこの社会の中でも現代でもやっぱり強い言語から弱い言語への押しつけっていうのは絶対的にあります。そういう中で、もし強い言語だけがどんどん広がっていくとすれば、弱い言語がどんどん淘汰されていく、なくなっていということになります。             

 これは人類全体にとってみれば非常に文化的な損失なんですね。一つの文化がなくなるっていうことなんですよ。一つの言語が消えるっていうことは一つの文化がなくなってしまうということ。だから、私は中国語の通訳者として北京語しかしゃべれないけれども、広東語にはなくなってほしくないと思っています。その文化を維持してほしいと思います。全世界にとってね、多様性っていうのは必ず必要なことです。どんなことがあっても一つの言語とか一つの文化を絶やすっていうのは、やはり正義ではないです。

 ですからそのためにも通訳者というのは、よりよいコミュニケーションを達成するために、ひとりひとりが自分の文化を背負った母語で自由に意見を述べることを保証するために必要な職業だと思います。ここまでがなぜ通訳が必要なのかということですね。つまり通訳というのはただコミュニケーションを助けるということ、それが基本なんだけれども、でももう一つは言語の権利を守るためにやらなくてはいけない仕事なんだということです。

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