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                                  1996.1.24

   「 信 達 雅 」 を め ぐ る 中 国 近 代 の 翻 訳 論

 

 今世紀における中国の翻訳論は厳復の「信達雅」(偽りのないこと・意を尽くしてい

ること・表現の優雅であること)に始まる。

 その後欧米列強や日本の大陸進出にともない、国家存亡の危機に際し文を以て国を救

おうとした魯迅は、瞿秋白とともに「硬訳・寧信而不順」(「直訳・すらすら読めるこ

とよりも寧ろ忠実であること」)を主張、中国語自体の持つ「欠陥」と翻訳における自

国文化中心主義を指摘した。これに対し、梁実秋、趙景深、胡適らは翻訳の普及のため

には「寧錯而務順」(多少間違いがあってもすらすら読める訳が重要)と反駁し、翻訳

論争に発展した。この論争を踏まえて、林語堂は「忠実・通順・美」(忠実・読みやす

い・美しい)を以て終止符を打とうとする。

 その後1950年代に入って「信達雅」の三位一体を主張する傅雷は「重神似不重形似」

(思想を移すことを重んじ、形式を移すことを重んじない)という論を展開、林以亮に

いたって、翻訳者と原作者の「心霊上契合」(魂の一致)論が出現し、翻訳は原理原則

の問題ではないという論調が現れてくる。

 本論ではまず翻訳論の原点である厳復を取り上げ、その後1930年代初期の中国の翻訳

理論について考察する。尚、魯迅の引用は『魯迅選集』の翻訳から引用し、その他は筆

者の翻訳によるものである。また、文中の人名と事項については、付録の人名注と事項

注を参照されたい。

 

1.「信達雅」−厳復の翻訳論,1898年

 中国近代の翻訳理論は1898年に出版された厳復の翻訳になる『天演論』( 1)の序

文に端を発する。厳復はこの短い序文の中で、現代にいたるまで人口に膾炙することに

なる「信達雅」の概念を提起した。次にその一部を引用する。

 

 「翻訳をするうえで難しいことは、『偽らぬこと』『意を尽くすこと』『文章表現の

美しさ』の三つである。偽らぬことだけでも非常に難しいが、原文への忠誠を求めるこ

とで訳文が分かりにくくなるなら、翻訳しても訳さなかったのと同じだ。…中略…

 易経に曰く、修辞は忠誠であるべきである。孔子曰く、文章は十分意を尽くす事が大

事だ。表現が美しくなければ、広く行き渡ることはない。この三者は文章を書くための

正しい道筋であり、翻訳された文章にとっても、最も望ましい姿でもある。したがって

、原文を偽らぬことと意を尽くすこと以外に、その表現の美しさも追究すべきである」

(原文の中国語は文語体で書かれたものである。その意味では上記の翻訳は原文に対す

る忠誠を欠き、格調の高さを伝達していない。だが、本論での翻訳の目的は原文の内容

の伝達を第一義と考えるため、以降の翻訳においても、文体や文字の美的表現は、翻訳

の対象と考えない。原文は事項注1を参照)。

 また厳復は英語から中国語への翻訳に関して、次のように述べてテクスト全体として

の対応を説いている。

「もしも英語の原文に出現する文字や語句をそのままの形式で移すならば、中国語とし

て体を成さないものになろう。英文では一文の長さも、短いものは2、3語、長いもの

は数十から百語となるが、これは中国語の文章表現では許容されない。これを嫌って、

中国語にとって冗長である部分を捨て去り、その思想を汲むとすれば、今度は意義の不

全に陥る恨みがある。翻訳をする者は文章全体の思想と論理を自らの心で融合させ、そ

れによって筆をふるうのである。原文にはおそらく深遠な意味を担わされた語彙がある

だろう。翻訳者はこれを一言で表現する術を持たぬと感じることもあろう。しかし、表

現しきれなかった語の重さは、その前後の文章の中で別の語に担わせることが可能なの

だ。このように翻訳をすれば国語としてわかりやすいものになり、わかりやすいことが

忠実であることを裏切ることもない」。

 

 「信達雅」の概念は今日もなお翻訳および通訳の基準として広く用いられている。中

華民国輔仁大学翻訳学研究所においても、「信達雅」を「忠実度・流暢度・語言表現」

と言い換えて通訳評価に用い、それぞれに50%、30%、20%の重要度を与えている( 2)

。厳復がこの三つの基準に「信達雅」の優先順位を設けたことは、全体的に見ると、穏

当な翻訳論であって、しかも一語対応による目標言語への置き換えも排している。だが

、その後の論争の中で様々な意見が出現する余地も残している。すなわち、「わかりや

すいことが忠実であることを裏切る」場合が多くの翻訳の実践のなかで体験されるにも

かかわらず、それを理想論で片付けてしまったということである。この単純な三基準だ

けで翻訳を実践する者に説得力を持つことはできない。しかも、厳復の言う「雅」はそ

の文章を一見して明らかなように、「古雅」を基調とするものでもある。それは、単な

る言葉の美の謂ではなく、広く古典にその範を求め、外国語からの翻訳のために中国歴

代王朝の仏典翻訳の方法を調べて編み出したものであった。言い換えれば知識階級でな

ければ、彼の翻訳を理解することはできなかった。この点で「翻訳書の普及」の問題も

後の論争の火種となって残されることになったのである。

 

2.翻訳は何に奉仕するのか−魯迅の翻訳論をめぐる論争,1930−31年

 この時代の翻訳論を紹介するのに、社会状況を抜きにして語ることはできない。日本

の開港に先立つ1845年、英国が上海に最初の租界を開き、魯迅が生きた時代は租界の最

も華やかなりしころであった。欧米列強の進出と同時に、西洋文化の大きな波に洗われ

た上海で、大量の翻訳書が出回ることになったのは当然の結果である。当時、中国の翻

訳社の約八割が上海に集中し、あらゆる種類の書籍が中国語へ翻訳されていた( 3)。と

にかく先を争って翻訳書を出版したために、やっつけ仕事の質の悪い翻訳も相当に多か

ったらしい。

魯迅と瞿秋白はともに左翼文芸運動を担う革命文学者として上海を中心に活動し、民

族自決を希求しつつも、一方では立ち遅れた当時の中国にとって西側の先進文化を吸収

する必要性を強く感じていた。当時、魯迅は巷間に流布する杜撰な翻訳について「貧乏

人にとっては半分腐っているリンゴでも買わなければならないのだ。腐った部分がある

からといってリンゴを売ってくれなければ我々は飢えてしまうだろう」と語り、翻訳書

出版の必要性を説き、同時に「重訳」(日本語や英語に訳されたヨーロッパの思想書等

をさらに中国語へ訳すこと。特に日本語からの翻訳が多かった)も必要悪として認めた

。( 4)

国家振興の手段としての翻訳に関して、魯迅は多くの小論を発表、また瞿秋白との往

復書簡を後に『二心集』という評論集に掲載した。以下に1930年から始まった魯迅と

瞿秋白の往復書簡を中心として彼らの翻訳に対する考え方を紹介してゆくが、まず、魯

迅が翻訳論を展開するきっかけとなった、梁実秋の魯迅批判から開始すべきであろう。

 

2.1 梁実秋「魯迅氏の『硬訳』について」

 1930年に出版された『文芸と批評』( 5)の後記において、魯迅は自らの翻訳に関して

次のように書いている。

 

 「訳者の能力不足と、中国語本来の欠陥から、訳し終えて読んでみると文章が晦渋で

難解のところすらまことに多い、複合句をばらばらにすればそれでは原文の語気が失わ

れる。私としては、やっぱりこのような硬訳をするしかしかたがない、でなかったら翻

訳をあきらめるほかない。残されただひとつの希望は、読者がただ我慢して読んでいっ

てくれることだけである」

 

 ここで最も注目すべきことは、「中国語本来の欠陥」という言い方である。魯迅は欧

文と比較すると、中国語は複合句によって文法的緊張を長く保つことができず、西洋近

代思想を取り入れるには不適切であると言う。だが同時に「東亜の病夫」たる当時の中

国を振興するためには、たとえ国語を変革しても欧米の近代文明を導入する必要がある

と考えたのである。そこで「ただ我慢して読んで」ほしいと読者に訴え、読者が徐々に

これを受け入れることで中国語の変革も可能になるのと目論み、「語体欧化」( 6)の概

念をも提起した。この論調はまさに日本が開国後に体験してきたものと同様である。

 魯迅のこのような考えを知ってか知らずか、梁実秋は『新月月刊』( 7)に発表した論

文「魯迅氏の『硬訳』について」で次のような批判を行っている。

 

 「魯迅氏の『硬訳』は死訳に近い。死訳の風潮は断じて助長すべきではない。……わ

れわれは『我慢して読んでいった』のだが何も得るところはなかった。『硬訳』と『死

訳』との間には一体どんな区別があるのだろうか。……大変に不幸なことに、こういう

種類の本には私に読んで分かるものがない。……最も私に困難を感じさせるものは文章

である。……全く天上の書物よりもまだ難しい。……中国人が読んでわかる表現で、わ

れわれに無産文学の理論とは結局どのようなものであるかを、説明してくれる文章を書

いた中国人はだれもいない。」

 「誤訳は死訳にまさる。一冊の書物が完全に誤訳ということはあり得ない。……部分

的な誤訳は、たとえそれが間違いであったとしても、結局は読者にひとつの間違いをあ

たえたということで、その間違いはあるいは大変な害を人にあたえるかも知れないにし

ても、しかしそれを読んで読者は結局のところ爽快な気分を得るわけだ」

 「……中国文と外国文はちがう。……翻訳の難しさはここにある。もしも二種の文章

の文法、句法、語法が完全に同じであるとしたら、翻訳は仕事といえるだろうか。……

言い回しをちょっとかえて、読者にわかりやすいということを第一義にしてもわれわれ

はかまわない。というのは、『我慢して読む』のは愉快なことではないし、それに『硬

訳』をしても果たして『原文の力強い語気』が保てるかどうかは疑問だからだ。もし『

硬訳』をして、しかも『原文の力強い語気』が保てたとしたら、それこそ奇跡であって

中国文に『欠陥』があるなどとはいえたものではないはずだ」

 

2.2 魯迅「『硬訳』と『文学の階級性』」

 梁実秋の上述のような批判を受けて、魯迅は「『硬訳』と『文学の階級性』」( 8)を

発表し翻訳に関する持論を展開した。

 

 「私の訳書は、もともと読者の「爽快」を得ようとするものではなく、それどころか

しばしば不愉快を与え、甚だしきに至っては人を悩ませ、憎悪させ、憤らせるものであ

る。……中国文と同じ外国文を求めたり、あるいは『二種の文章の文法、句法、語法が

完全に同じ』であることを希望したりするほど私は愚かでもない。……日本語は、欧米

の言語とは大変『ちがって』いる。しかし彼ら日本人はだんだん新しい句法を加えてい

って、昔の文章とくらべたら、一層翻訳に適するように、しかも原文の力強い語気を失

わないものにした。いうまでもなく最初は『句法の繋がりや位置をさぐ』らねばならず

、一部の人を大変不愉快にしたが、しかしさぐるのと習慣とが、今ではもう同化して既

有のことになってしまった。……いろいろな句法は新しく作る−−悪く言えば無理に作

る必要がある。

私の経験から言って、こういう『硬訳』のほうがいくつにも区切って説明的に訳すより

、原文の力強い語気は一層保てると思う。ただし、中国文が新しく造られることを期待

するが故に、いままでの中国文には欠陥があると言うのである」

 

2.3 魯迅と瞿秋白−民衆革命のための言語改革

 瞿秋白は魯迅に宛てた書簡のなかで上記の問題について明確な意見を述べている。

 

 「翻訳には原本の内容を中国の読者に紹介すること以外に、もう一つの重要な役割が

あります。それは我々のために新しい中国の現代言語を創造することです。中国の言語

や文字はこんなにも貧しく、限られており、常日ごろ使っている物でさえ満足な名前す

らないものが多くあります。中国の言語は手振り身振りの域を超えない程度だといって

もいい。ですから当然のこと、細やかな区別と複雑な関係を表すための形容詞も、動詞

も、前置詞もほとんど無いに等しいのです。このような状況にあっては、新しい言語を

創造することが非常に重大な任務となります。ヨーロッパの先進国ではすでに数百年も

前にこの仕事を完了しました。…ヨーロッパでこの役割を担ったのはルネッサンス期と

啓蒙運動の時期のブルジョア階級でした。しかし中国のブルジョア階級にはこのような

能力はありません。欧米かぶれの洋行帰りの連中、つまり胡適たちも国語の改革を叫ん

ではいるけれども、その結果はただお上に気に入られたというだけのこと。ですから、

プロレタリア階級がこの任務をやり遂げるしかないのです。翻訳は、確実に新しい単語

を多く作り出し、新しい文法、豊かな語彙、そして細かく区別された精密で正確な表現

を与えてくれるのです。我々は中国現代の新たな言語を創造する闘争を進め、翻訳に対

しても、絶対的な正確さと絶対的な口語表現を追究しなくてはならない。つまり翻訳に

よって新しい文化の言語を大衆に紹介するということなのです」(「二心集」1931)

 

 中国語は現代でも文語と口語の相違が非常に大きな言語である。瞿秋白がこの書簡を

書いた当時、口語化運動はすでに開始してはいたが、朗読された文章を聞いてわかる段

階には達していなかった。彼は胡適らの提唱する文章を「文語口語半々の雑種」と評し

、音で聞いてわかる文を書くべきだと言う。これが「絶対的な口語表現」である。例え

ば、「山の後ろに太陽は沈んだ」という原文を訳すとき、それまでの翻訳者はどうして

も「日落山陰」(日は山蔭に落つ)と四文字に訳したくなる。そのような言語的美意識

が働いてしまうのである。だが魯迅は敢えてこれを「山背後太陽落下去了」と訳す。原

文は「山」を主としているが、「日落山陰」は太陽が主であるからだと言う。現代でも

同様な傾向が見られ、外国語から中国語への翻訳に際して「口語的すぎる」ことは嫌わ

れ、評価も低い。

 我々日本人が書く中国文は、しばしば「半文半白」(書き言葉半分、話し言葉半分)

、「太口語化」(口語的過ぎる)と注意され、少なくとも私自身が留学した頃は「尺牘

」とよばれる書簡文の、いわば「候文」のようなつづり方の授業があった(それほど昔

のことではない)。ましてや当時の中国では、中国文の言語的美意識を裏切ることに相

当な抵抗があったことは容易に想像できる。良い中国文はいつの時代でも音楽的である

。リズムと旋律を持たない言語表現を中国語は本能的に嫌う。それは日本人が七五調に

安心する以上の美的束縛を中国人に与えるているものだと思う。

 瞿秋白はその後の書簡の中で、もしも「一般大衆の口にのぼる中国語で訳す」原則を

守れば、魯迅の言う「寧信而不順」(忠実であることがすらすら読めることにまさる)

「今は多少ぎこちなくても許容すべき」という問題は成立しないと言っている。当時の

翻訳に関する論争は、魯迅の主張する「寧信而不順」と梁実秋門下の趙景深( 9)が主張

する「寧錯而務順」(すらすら読めることが忠実さにまさる)の両極端の意見の対立と

して捉えられていた。瞿秋白これに異を唱えて、書き言葉を話し言葉と完全に一致させ

れば、文章が「ぎこちない」はずはないし、原文を裏切ることにもならない、「信」と

「順」を対立させていること自体が問題なのだ、と言う。彼の言う「新しい言語」がそ

れまで文学の範疇の外に置かれていた民衆の通俗的口語用法に書き言葉の形式を与えよ

うとするものであるなら、現代中国語で文字言語に少なからず通俗の表現を採用してい

ることは、文章表現の大きな変革があったと考えることも可能だと思う。

 さて、魯迅は瞿秋白への返信のなかで、欧米の書物を翻訳するときに何故完全に中国

化して読者の苦労を省こうとしないのか、そのような難解なものが翻訳と呼べるのだろ

うかという問題にふれ、このように書いた。

 

 「訳本というものは単に新しい内容を輸入するばかりでなく、新しい表現法をも輸入

するものです。中国の文章あるいは言葉は、その法則が実際あまりに不精密です。……

この語法の不精密ということは、思考の筋道が精密でないことを証明しています。言葉

を変えて言えば、頭がボヤけているということです。もし永遠にこのボヤけた言葉を使

い続ければ、文章を読んで大変すらすらと読めたような気がしても、結局残るのはボヤ

けた影であります。この病気を直すために私はひたすら苦くて異様な句法を詰め込んで

いく。古いものでも方言でも外国のものでもです。いつかそれが自分自身のものになる

のです。これは決して空想ではありません。例えば日本では、すでに欧米化した文法が

きわめて普通になりました。梁啓超が『和文漢読法』(中国人のための日本語学習用教

本)を書いた時代の文章と今の日本語はまったく違っています」(「二心集」1931)

 

 魯迅は、最初はぎこちなく思え、抵抗を感じるものであっても次第に定着し、ひいて

は言語自体が思考の方法を変革すると考えていた。国を救うためには中国の大衆の思想

から改革する必要があり、思想を改革するためには言語をまず改革する必要がある、つ

まり敢えて「不順」(すらすら読めない)ものに挑戦しなければならないと主張する。

 この点において魯迅は瞿秋白より過激である。瞿秋白は文学を民衆のものにするため

に「絶対的口語表現」を原則とすることを主張するが、魯迅は言語それ自体の変革まで

求めなければ民衆は救われないのだと言うのである。

 以上から明らかなように、魯迅は読者に対してもただ「すらすら読める」ことや「す

ぐに解る」ことだけを求めてはならないと言っている。「ボヤけた頭を治療する」には

苦い薬を我慢して飲み続け、それを習慣化するしかないのである。当時の翻訳に対して

、「出版社および翻訳者は先を争って新しい翻訳書を出すことだけを考え、原書を開け

たら全体を通読することなど考えず、一行目からいきなり訳し始める、翻訳者が原書の

全体思想を理解しているか否かなど問題にもしない、だから粗製乱造のわけの分からな

い翻訳があまりにも多い」という批判があった。これに対して魯迅は次のような意見を

述べた。

 

 「今日最も普通にある翻訳への不満は、数十行読んでも意味がわからないことである

。だがそれにも区別をつけねばならぬ。もしもカントの『純粋理性批判』のような本だ

ったら、ドイツ人が原文を読んだとしても、専門家でない限り、すぐには意味がとれな

いだろう。むろん「一行目をあけてすぐ訳す」訳者は、あまりにも無責任である。しか

しはっきりと区別せずに、どんな訳本でも一行目をあけてすぐ解らぬといけないという

読者も、あまりに無責任だといわざるを得ないのである」(「翻訳のための弁護」1933)

 もう一つの問題点は、忠実でない翻訳が蔓延していたことである。魯迅はその翻訳論

のなかでいろいろな誤訳の例を挙げているが、確かに原文を理解せずに訳している文章

が相当に多く見受けられる。

 

 「『原文に忠実ではあるが、すらすら読めない』翻訳は、せいぜい読んですぐ分から

なくとも、少し考えてみればわかるだろうということ。だが『すらすら読めるが、原文

に忠実でない』翻訳は、却って人を迷わせ、どんなに考えても分からないし、分かった

ようであってもそれは迷路に入っているのだということ」(「幾つかの『すらすら読め

る』翻訳について」1931)

 

 魯迅が言っているのは、誤訳の害というレベル以上の問題である。例えば魯迅の有名

な小説『孔乙己』や『阿Q正傳』で彼が描いているのは、伝統的な価値観に縛られ、新

しい思想を受け止めようとしない人々の姿である。孔乙己も阿Qも心を病んだ「東亜の

病夫」である中国自身の姿を反映している。魯迅の「語体欧化」論は翻訳のための翻訳

論ではないということをよく心に止めておかなければならない。

 

3.胡適

 胡適はいわゆる「意訳」の支持者であり、次のように主張している。

 

 「ちょっと考えてみよう、もしもルソーがイギリス人ではなく、中国人で、しかも今

日の中国人であったなら、あのことを書くのに、一体どんな風に書くだろう?…文章を

書くということは二つの責任を負う。ひとつは自分に対する責任、もうひとつは読者に

対する責任である。自分に責任を負うとは独自の思想と風格を表すこと、それを読者に

わからせることが読者に対する責任である。だが翻訳をするときは責任は三つになる。

つまり原作者に対する責任も加わる。原作が良い作品であれば、それは良い作品として

訳されなければならない。」

「厳復の言う『雅』は優雅な格調の高さである。今の翻訳は優雅である必要はない。読

者が満足できる文章であることが重要だ。『信』は一語一語訳すということではない。

玄奘法師(10)は西域から持ち帰った仏典を一字一句丁寧に翻訳した。しかし後世に広く

伝えられているのは鳩摩羅什(11)の翻訳によるものだ。鳩摩羅什は文の構造を大きく変

えたり、一段落まるごと削ったりしている。それはくどくどしい文章が中国の読者にと

って却って分かりにくいからだ。読まれない翻訳が何の役に立とう。75%しか訳して

いないが読者によく分かる翻訳は、100%訳しているが読者に分からない翻訳にまさ

る。もちろん75%でなくても、76%でも80%でもかまわない」(国立編譯館での

演説概要)

 

 最後の「75%〜」云々のところだけを見ると、これは我々のような翻訳や通訳を生

業としている者にとって甘く口当たりの良い美酒である。だがこの酒に酔って感覚を麻

痺させると中毒になる危険性が非常に高いので気をつけなければならない。胡適が最も

強調したい点は冒頭にあげた「普通の中国人なら同じ内容をどのように表現するか」を

追究するべきであるということだろう。一般的にいって、翻訳や通訳を評価する者は目

標言語しか見ない。目標言語としての完成度を上げるほうが翻訳者は高い評価を得られ

るのである。受容する側に努力を求めない翻訳論、つまり、「信達雅」の基準から見た

場合の「達」を最も優先させるべきであるとの意見は梁実秋等と同様の論調である。た

だ、胡適の場合は実際に翻訳した書物は短編小説集が二冊と共訳の哲学書が一冊だけで

、実践的翻訳者とはいえない。思想傾向も保守的でマルクス・レーニン主義には一貫し

て反対の態度を取り、政治や国語の問題については改良主義を主張していたので、上述

の意見はどちらかと言えば魯迅らの過激な論調に反対するために提起されたものだろう

。つまり、胡適が特に翻訳に関して深く考えていたようには思えない。「訳す」ことを

真剣に考えている論者であればこのような乱暴な括りかたはできないはずである。

 

4.翻訳はアートである−林語堂の『翻訳を論ず』1932年(12)

 林語堂の翻訳論は最も合理的で冷静なものだ。上述した対立するふたつの論調(魯迅

に代表される「思想改革」派と胡適・梁実秋らの「すらすら読める」派)に対して、林

語堂は翻訳を民衆の革命や啓蒙の手段としてではなく、言語芸術の問題としてとらえる。

4.1 翻訳は個人の仕事であることについて。

翻訳を論じる際にまず考えなくてはならないことは、翻訳者自身の問題である。林語堂

は翻訳者を芸術家になぞらえてこのように書いている。

 

 「翻訳を論ずる際にはっきりと意識しなければならないのは、翻訳は一種の芸術であ

るということだ。芸術の成功はおよそ個人の芸術的才能と、その芸術の分野で精進を積

んだことに依存する。その他に芸術を成功させる近道はない。もともと芸術にうまくい

く秘訣などあるわけはない。翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の原文の字句と内容

に対する徹底的な理解、第二に翻訳者の非常に高度な母語の運用力、つまり達意の中国

文を書く能力、第三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻訳の基準と処理の方法につい

て正確な見解があること、である。この三者を除いて翻訳にはいかなる規範も存在しな

い」

 

 第一にあげた理解の問題として林語堂が強調するのは翻訳をするには一字一字の用い

られている意味を正確に理解しなければならず、これは「抱字典譯書(辞書を抱えて書

を訳す)」段階では達成し得ない理解の程度である。翻訳を始める段階にいたるには起

点言語に対する長年の研究と、一つ一つの語の多種多様の用法を経験していなければな

らない。 第二点の、母語で達意の文章を書くということにおいて、林語堂は魯迅の言

う「語体欧化」を厳しく排除する。林語堂は特に欧米言語からの影響を受けた翻訳調中

国文が人称名詞や本来必要のない指示語「它」(itに相当)を多用すること、そして不

自然な受動態を使うこと、むりやり時制を示す語を挿入すること、「是」(isに相当)

が不必要に多いことなどを強い口調で批判している(13)。「欧化」した中国文はゴテゴ

テとして化け物のようで、本来の簡素の美を忘れ、自己卑下して飾りたてている、と彼

は言う。その結果として、「私は私の手の中に幾つかの鉛筆たちを持つであろう」式の

複雑かつ不自然な文になるのなら、翻訳は国語を改革するのではなく破壊するものにな

ってしまう。

だが、要するに第一点と第二点は起点言語および目標言語の能力であって、ここまでは

訳の前提段階にすぎない。もし翻訳者がこの二つの関門をクリアできず、二つの言語を

正確に使い分けられないのであれば、第三点の翻訳の基準と処理方法の問題について考

える必要はない。この第三点に言及して林語堂は「忠実・通順・美」の三基準をあげた

。以下にそれぞれの観点を要約して紹介する。

 

4.2 「忠実」の問題

4.2.1 忠実さの四段階

 林語堂は「原文に対する忠実さは四つの段階に分けられる。即ち直訳・死訳・意訳・

胡訳(でたらめ訳)である。今日の翻訳界には全てのサンプルが揃っている」と述べ、

この中で、まず排除されるべきは死訳と胡訳であるとした。その理由は次の通りである

 「死訳は言ってみれば直訳党の過激派だ。彼らは“ the apple of my eye”(掌中の

珠,目に入れても痛くない)を「我が目の林檎」と訳さなければ気が済まない。…これ

では原文の意味も保持せず、いわゆる『語体欧化の美』も表せない。…胡訳は逆に意訳

党の過激派である。彼らは訳文をわかりやすくするためには、あるいは深遠難解で典雅

な文章にするためには、翻訳者は何をしてもかまわないと思っている。この胡訳で最高

の業績をあげたのは、何と言っても林琴南先生と厳幾道(厳復)先生の他はないだろう

。お一人は十九世紀のハクスリーの著作を柳子厚(柳宗元)の『封建論』(14)に、もう

お一人は西洋の長編小説を『七侠五義』(15)に化けさせたのであるから。」

 

 こうして死訳と胡訳を排して後の論調はこうである−−したがって、死訳は目標言語

の読者が理解するところを無視し、胡訳は起点言語の作者が意図するところを無視して

いる(または原文を理解していない)翻訳であるから、もともと翻訳とは呼べない。故

にこの両者は論ずるに足るものではない。検討すべきは直訳と意訳ということになる。

だが「直訳」・「意訳」という呼び方は明確な定義を持たず、誤解されやすい。しかも

「直訳」と「死訳」の区別、「意訳」と「胡訳」の区別も曖昧で、翻訳者に逃げ口を与

えやすい。翻訳者は「文体が生硬で読みにくい」と批評されれば「原文に忠実に直訳し

た」と言って悪文の責任を原作者に押し付けることができようし、逆に「原文に不忠実

だ」と言われれば「読者の立場に立った翻訳である」と開き直ることもできる。そこで

彼はこの定義付けのできない用語で翻訳を論ずることもやめよう、と提案する。

 

4.2.2 「忠実」を求める方法

 ここで新たに提起されるのが「字訳」と「句訳」という概念である。この両者は解釈

の方法によって区別される。直訳か意訳かは主観的な判断しかできないが、字訳と句訳

は明確な違いがある。字訳は語のレベルで翻訳することを言い、句訳は一つのまとまり

で翻訳することを言う。字訳では前後の関連性を無視して辞書的断章主義に陥るので適

当ではない。したがって、翻訳は句で訳せという(「句」は文に相当すると考えてよい

)。翻訳にあたっては句全体の意義を正確に了解した後に、目標言語の語法と習慣によ

って再び全体的に表現することを要する。読み手としての翻訳者は一字一字正確に解釈

する責任があるが、書き手としての翻訳者は一字一字を記述する責任はない。解釈すべ

きは語のロジカルな意義と情感的な意義、語の明示するものと暗示するもの全てである

。表出すべきは解釈されたこの両者を包括する「字神」である。「字神」を伝えること

を「伝神」という。

 

 ここで彼は『詩経』の国風の口語訳をあげて「このような『達意』だが『伝神』でな

いものは原文の翻訳とは呼べず、これは原文の暗殺としか言えない」と述べている。

 

4.2.3 絶対的忠実の不可能性

 文章の美には、音の響き・意義・意図・語気と文体と形式の美、というように様々な

側面があり、これを外国語に同時に全て移し替えることは言うまでもなく不可能で、原

文とのずれをなるべく小さくするよう努力することしかできない。我々が忘れてならな

いことは、翻訳というのは一種の「止むを得ないが非常に有益な仕事」であって、原文

の代わりにはなり得ない、という事実である。百%忠実などということは戯言にすぎな

い。

 

4.3 「通順」(読みやすさ)の問題

 この問題について林語堂が最初に述べているのは、翻訳でも著述でも読者のために書

く点は同じなのだから、晦渋な文章でもそれが習慣化すれば難しく感じなくなるだろう

等という意見は、文章の書き手として読者に余りにも無責任だ、ということである。明

らかに魯迅らの主張に対する批判である。

 

4.3.1 読みやすい文章の書き方

 「忠実さの問題」で語の精密な解釈にもとづく「句訳」をあげた。この「句」を生み

出す際には、表出すべきまとまったイメージ(total concept )が翻訳者の脳裏に存在

していることが必要である。読みやすい文章を書くには、先にまとまった概念があり、

その後に概念にあわせて語を選び組み合わせることが重要だ。最初にひとつひとつの語

があり、それを組み合わせて句にしようとするから失敗する。良い文章を書くときには

恰もその文章の音の響きが聞こえるかのように全体の概念が浮かび(auto dictation)

それが即興の演奏のように自ずから現れ出る(extemporizing )と言う。語から考えは

じめて句を作ろうとするから、いくら推敲しても不安が残るのである。

 

4.3.2 翻訳者は目標言語の心理に完全に依存すべきこと

 翻訳が起点言語に影響されるのは免れ得ないことであるし、翻訳者が原文の風格を完

全に無視することもできない。だが翻訳の結果を見たときに、文法上の間違いはないが

何故か奇妙な感じを抱かせ、我々はこのようには言わないと思わせる文章がある。これ

を「欧化」であるとして受け入れ賞賛することはできない。どのような文章であっても

国語の規範から外れたものは全て「通順」ではない。翻訳も例外ではない。「欧化」と

いうのは基本的に新しい語彙を作る仕事なのであって、国語の文法まで「欧化」しよう

とするのは至難のわざでもある。一文一文をことごとく「欧化」しようとしてもできな

い相談である。

4.4 「美」の問題

 「忠実」と「通順」は実用面のみを問題にしている。翻訳は実用のほかに芸術として

も機能しなければならない。理想的な翻訳家は翻訳を美の領域の作業として捉える。

 

4.4.1 芸術は翻訳不可能である

 Croceの言う通り「凡そ真正の芸術作品はすべて翻訳できない」。とりわけ最も

美しい叙情詩は作者の意図と文字表現の美が渾然一体となって表出しているため、元の

文字を離れてその美の生命を維持する術はないのである。そこで芸術作品の翻訳をしな

ければならない場合は一切の不可能性のなかから相対的可能性を求めることになる。芸

術作品としての文章にも、固有の言語の文字や語に美の重点があるものもあれば、作者

の思想や経験に比較的に重点を置いているものもある。後者の翻訳は、シェイクスピア

等に見られるように比較的に可能であろう。だが、その国の言葉の精神と緊密に結び付

けられ、文字と意図を引き離すことが不可能な芸術作品としての文章は、どうあっても

翻訳はできないものと考える。

 

4.4.2 文体の美と外部形式・内部形式

 文章の美はその内容にあるのではなく文体にあり、文体は芸術の中心問題である。文

章の形式もまた軽視できない。外部形式(outer form) とは文の長短や構文の複雑さ、

あるいは詩の定型などを指し、内部形式(inner form) は作者の個性に係わる、理想主

義的とか幻想的とか悲観的などの文の格調のことを指す。すなわち「何を」ではなく「

どのように」言っているのか、の問題である。これを訳文に表すには翻訳者自身の文学

的素養が問われることになり、原文をまるごと理解し完全に吸収できなければ翻訳はあ

きらめたほうが無難である。

 翻訳は production であって reproduction ではない、とCroce は言う。芸術的文章

を翻訳する人は翻訳の仕事自体を芸術であると考えなければならない。

 

4.5 林語堂の結論

 最後に彼が述べているのは、結局は翻訳は訳者自身の個人的な問題であり、翻訳には

絶対的正解もない、同じ原文を訳しても訳者によって十人十色になる、ということだ。

例えば二人の翻訳者が、翻訳の思想について完全に意見が一致したとしても実際に訳し

たものは必ずや違ったものになる。これが翻訳は個人の自由な裁量に依存する所以でも

あるし、翻訳が芸術であると主張する論拠でもある。

 

5.おわりに−−テクスト・タイプと翻訳の目的

 以上、中国1930年代の翻訳論における主な論点を紹介した。それぞれの論点の違いは

、結局は翻訳の目的の不一致ではないかと思う。梁実秋や胡適らは、民衆を教育し、国

民の教養を高める目的で訳書を出すのだから、とにかく「読まれる翻訳」でなければ意

味がないと思う。だが魯迅や瞿秋白にとっての翻訳は思想改革のための武器である。翻

訳によって言語を変革し、言語を変革することによって民衆を変え、国家を変えようと

までしているのだから、翻訳は「すらすら読め」ては却ってよくない。林語堂は翻訳に

芸術以外の意味を与えたくない。芸術には啓蒙思想も政治的色彩も関係ない。

 翻通訳は国語の問題と同じで、誰でも何か意見が言えるのだが、どうしてもつまると

ころ厳復の言う「信達雅」に還元されてしまい、起点言語のテクスト・タイプと翻訳の

目的によって手法は完全に異なってくるということが無視されがちである。例えば、語

学学習のための翻訳も学校の授業で行われる。文法を教えるために作られた例文を学習

のために翻訳するなら「欧化」した文体に訳すほうが自然な日本語にするより重要なこ

とだろう。 語学と文学の愛好家はさらに趣味が目的で翻訳をする。現に村上春樹は多

くの現代アメリカ小説の翻訳を出しているが、翻訳は趣味だと言い、「自分の味付けを

なるべく表に出さないように、ぎりぎりのところまで地道に無色にテキストに身を寄せ

て」、「細かな一語一語にいたるまでいかに原文に忠実に訳せるかということに尽きる

」と述べている(16)。 翻訳者の基本的な態度は誰でも同じなのだと思う。ただ、翻訳

も通訳も発信者と媒介者と受信者の三者関係と周囲の環境によって決定されるもので、

この関連性を抜きにしては十分に語れない。反面、翻通訳という行為を通じてこれらの

関連性が浮彫りになり、ことばの働きの新たな発見につながるところが興味深いのであ

る。

                                      以上

 

 

人名注

 

*厳復 (Yan Fu,1854〜1921):清朝末期の啓蒙思想家。字は又陵、号は幾道。

    福州の人。

    海軍技術習得のために渡英、欧米の政治制度や思想に触れ、中国の立ち遅れを

    痛感して帰国。日清戦争敗北後、進化論の立場から政治改革の必要を強調。

    翻訳理論の面では中国で最初に翻訳の基準を提起した。1915年以降、儒教文化

    の尊重と復古主義を唱え、新たに勢力を得つつあった民主・科学・口語を提唱

    する文学運動に反対の立場をとった。翻訳書は『法の精神』、『国富論』等多

    数。

*梁実秋(Liang Shiqiu,1903〜1987):文学者、翻訳家。

    学問上の名前は治華、字は実秋,秋郎、子佳の筆名も用いた。

    浙江省杭県の人。学生時代から小説を発表し、二十歳で渡米、帰国後は大学で

    教鞭をとるかたわら雑誌編集にも携わる。文学理論の面では人類普遍の理性と

    感性による文学を主張し、文学の階級性に強く反対して魯迅ら左翼作家から糾

    弾された。1949年、共産中国成立の年に台湾に移住。

    小説、評論等著作多数。主な訳書にシェイクスピア全集など。

*魯迅 (Lu Xun,1881〜1936) :文学者、思想家。原名は周樟寿、後に周樹人と改名。

    字は豫才、魯迅は筆名。浙江省紹興の人。

    公費留学生として日本に留学し医学を志すが、帰国後文学による中国人の精神

    改革を急務と考え左翼文学者となる。

    帝国主義、人民を束縛する歴史のくびき、日本の侵略と果敢に戦い、創作、翻

    訳のほか中国古典文学の研究や木版画にも多くの業績を残し、中国近現代の倫

    理学および美学にも影響を与えた。抗日民族戦線下の上海で病没。

*瞿秋白(Qu Qiubai,1899〜1935) :文芸理論家、政治家。

    幼名は双、または霜、爽とも。江蘇省常州の人。

    没落知識階級の家に生まれ、苦学して俄文専修館(ロシア語専修学校)を卒業

    し、新聞社特派員として革命直後のモスクワに駐在。帰国後、魯迅とともに左

    翼文学運動に参加し、マルクス、レーニンの著作をはじめ、多くのロシア文学

    の翻訳書を監修、出版した。二万五千華里の長征のとき、国民党に捉えられ銃

    殺された。

*胡適 (Hu Shi,1891〜1961) :清朝末期から民国初期の学者、思想家。

    安徽省績渓の人。字は適之。

    米国留学後、帰国して大学教授となり、自由な個性による文学・白話文学(口

    語による文学)の提唱者として文学革命運動の先頭に立ったが、政治思想の違

    いから五四運動時期に魯迅ら左翼文学者と袂を分かち、1948年、共産中国成立

    前年に米国に亡命、後に台湾に移住して中央研究院院長となった。

    台湾に移ってからは米国の実存主義哲学の研究により、中国哲学界に多大の影

    響を及ぼした。共産中国では批判闘争の中で「欧米至上主義」「ブルジョア思

    想」であるとして批判された。

*林語堂(Lin Yutang,1895〜1976):文学者。原名は和楽。福建省の人。

    上海セント・ジョーンズ大学卒業後、米国とドイツに留学。帰国後、北京大学

    および北京女子師範大学で教鞭を取るかたわら、魯迅らの語糸社に参加し文学

    の旧勢力に対抗した。後の文学論争のなかで、フェアプレーとユーモアを主張

    して、魯迅らの反発と批判を受ける。1936年に渡米した後ほとんど国外で生活

    し、次第に反中共・国民党支持の立場を明確にして、晩年は台湾に定住した。

*林琴南(Lin Qinnan,1852〜1924):琴南は字。本名は[糸予],福建福州の人。

    大学で古文と経学を教えるかたわら、西洋小説の紹介に尽力した。

    『椿姫』や『アンクル・トムの小屋』など多くの訳書があるが、実は本人は外

    国語を解さず、共訳者の口述翻訳をもとに古文の筆法で仕上げたものである。

    これらの「翻訳」小説が世に出た途端に大ブームとなり、翻訳者として有名に

    なって引っ込みがつかなくなり、その後も同様の独特の手法で翻訳を続け、百

    八十余冊にのぼる西洋小説を世に送り出すことになった。新文化・新思想・言

    文一致には一貫して強く反対していた。

 

 

事項注                                     

( 1)『天演論』:ハクスリー(Huxley,Thomas Henry )『進化論と倫理学』(1893年)

  の中国語翻訳。この翻訳書の序文である『天演論・譯例言』において厳復は翻訳論

  を展開した。文言の華語で千字あまりの短文である。本論で紹介した最初の文章の

  原文を参考までにあげる。完全な文語で書かれている。

  「譯事三難信達雅。求其信己大難矣。顧信矣不達。雖譯猶不譯也。 …中略… 

   易曰修辞立誠。子曰字達而己。又曰言之無文。行之不遠。

   三者乃文章正軌。亦即為譯事楷模。故信達而外。求其爾雅。   …後略…」

( 2)輔仁大学翻訳学研究所の通訳評価における重要度の配分:当然のことながら、この

  重要度の幅はテクストタイプによって様々に変化すべきではあるが、同研究所の場

  合はいわゆる「情報提供型」スピーチの「同時通訳」を対象とし、文学等をその訳

  出対象とはしていないため、基本的には起点原語に忠実であることを最も重視して

  いる。

( 3)『横浜・上海友好都市締結二十周年記念論文集』「上海租界と横浜居留地」による

( 4)重訳:「重訳を論ず」「再び重訳を論ず」(評論集『花辺文学』所収)

( 5)『文芸と批評』:魯迅の翻訳によるソ連ルナチャルスキーの論文及び演説集 

( 6)「語体欧化」:文体が欧米化すること。いわゆる直訳調のこと。

( 7)『新月月刊』:胡適・梁実秋・徐志摩ら英米留学組が発起人となって設立した「新

  月社」刊行の文芸雑誌。梁実秋は「文学に階級性の枷をはめるのはよくない」と発

  言したため「階級に奉仕する」ことを重視した革命後の中国では「芸術のための芸

  術」と批判された。

( 8)「『硬訳』と文学の階級性」:『二心集』所収論文.

( 9)趙景深:1902-1985 ,主に児童文学と民間故事の研究を行った文学者。

  アンデルセン童話の中国語訳が有名。

(10)玄奘法師:インドに仏典を求める旅に出た学僧。長安の翻訳院で仏典漢訳事業を行

  った中国四大訳経家のひとり。インド旅行中の記録『大唐西域記』は当時のインド

  ・中央アジアを知る貴重な史料である。

(11)鳩摩羅什:クチャ国王族出身の僧侶。鳩摩羅什は漢名、サンスクリットではクマラ

  ジーヴァ。長安に住み、玄奘とともに経典の翻訳と弟子の指導にあたって中国に

  おける仏教の確立と展開に大きく貢献した。

(12)「翻訳を論ず」:「論翻譯」,呉天曙編『翻訳論』所収。1932年

(13)「国語文法的建設」・「説=相」(=は「薛」に「子」,『邪悪な姿を語る』)・

  「論他、=、它及他(=)們的怪物」(=は「女」に「也」,『彼,彼女,及び彼

  (彼女)らの怪物を論ず』)・「論東西思想法之不同」に見られる観点をまとめた。

(14)柳子厚の『封建論』:唐代の文学者、柳宗元(Liu Zongyuan,773-819)の著書。

(15)『七侠五義』:中国宋代の名裁判官、包拯(包青天)を主人公にした通俗小説。

  「銭形平次」や「遠山の金さん」のようなもの。

(16)「趣味としての翻訳」村上春樹,週刊朝日一月二十六日号

 

 

参考文献

『魯迅選集』第五巻・第八巻・第十巻,岩波書店,1956年

『林語堂選集』香港文学研究出版,出版年不明

『翻訳論集』台湾書林出版有限公司,1989年

『中国現代作家大辞典』中国新世界出版社,1992年

『中国百科大辞典』中国華夏出版社,1990年

『コンサイス外国人名事典』三省堂,1990年

『最新中国情報辞典』小学館,1985年

『横浜・上海友好都市提携二十周年論文集』「上海租界と横浜居留地」1993年『横浜と

上海』−二つの開港都市の近代  横浜開港資料館1993年