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言語の曖昧さとコミュニケーションについて


 自然言語は曖昧で混乱した概念を使わざるを得ない。自然言語は多義的であり、それによって様々な解釈をすることが可能になる。たとえば聖書の解釈をめぐっては、聖書を文字通りに読むと神の絶対性が危うくなりそうな部分があるが、「文字通りに受け止めれば間違いだが、霊的には正しい」(パスカル)という。このように、完全な存在としての神や、個人崇拝を受ける独裁者を擁護するためには自然言語の曖昧さを利用した詭弁が役に立つことは、聖書だけではなく、ヒトラーや毛沢東などの独裁政権の時代に行われた国家指導層の演説、マスメディアの報道及び政治学習会においても明らかである。

 しかし、だからといって個々の言葉に完全に一義的な語義しか与えない完全言語を作り出せば、それが誤解の一切ない完全なコミュニケーションを実現することができるのだろうか。

 自然言語の曖昧さというとき、実は次のような二つの意味がある。
 ひとつは、現実の世界とことばの関係である。人類が現実世界をことばによって表そうとするとき、「世界を分節化する」必要が生じる。実際の世界の事象は連続していて切れ目がないが、それを有限の語数からなることばで表現しなければならないため、ある事象を別の事象と区別するために切り分ける必要がある。すると、恣意的に切り分けられた結果としてのことばは、一種の仮想現実として機能することになる。もしも世界の全てを完全にことばに移そうとすれば語の数は無限になければならない。全ての語が一義的にしか機能しなければ解釈の相違や誤解も生じないかもしれないが、しかしそのような言語は現実的ではない。なぜなら語の数は「無限」ではあり得ないし、仮に無限にことばを生み出したとしても人類には使いこなせない。ことばを作り出すための分節の方法が、そもそも本質的に曖昧である。例えば「林」と「森」の境界線をどこに引けばよいだろう。人はこれらのことばを使う時、それを明確に示すことはできない。ただ、曖昧にぼやけた基準で切り分けているだけなのである。

 もうひとつは、それぞれの語が持つ多義性である。前述のように連続する無限の世界を分断された有限のことばで表現するため、ひとつひとつの語それ自体が担う意味は当然多義的にならざるを得ない。多義的ということは様々な解釈が可能であり、意味が曖昧であるということだ。個々の語の意味領域は明確でないため、語の意味は個別の文脈の中でのみ生まれることになる。「木を植える」、「木の椅子」、「金のなる木」等々と言うとき、それぞれの「木」は同じものではない。このような言い方が全て成立するのは語には多義性があるためである。

 「ことばの曖昧さ」がなければ言語コミュニケーションは成立しない、という点に関して、“The Use and Abuse of Confused Notions”(p.96)では、perfect languageがperfect communicationの手段ではないとし、コミュニケーションには自然言語の曖昧さが必要であると述べている。同様の論調として数学者である菅野道夫の著書『ファジイ理論の展開』から引用しよう。

 菅野道夫『ファジイ理論の展開』P.149
 −−コミュニケーションにおける言葉のあいまいさ
  さて、思考における言語の「あいまいさ」の役割はコミュニケーションの場 ではさらに厳しいものとなる。コミュニケーションとは、比較的に時間を長く とれる一人芝居の思考とは違って、限られた時間で、言葉をやりとりする場である。短い時間、しかも実時間で言葉をやりとりし、互いに理解し合わなければならないとき、言葉の定義を互いに確認し合ったり、共にその意味を確定している暇はない。たとえば、意味が二値論理的に限定されている言葉を使ったら、そのような言葉の数は無数に必要になり、したがって無数にあるだろうから、完全に同じ物が自分の内に見つからないため、相手の言葉を理解できないことが始終起こるだろう。そして、コミュニケーションは、確認のため、寸断され、成立し得なくなるだろう。だから、コミュニケーションにおいては言語は自分の言葉と相手の言葉がそれぞれ広がりをもち、そのことによって少なくとも言葉の指示の周縁部分において、漠とした共通の領域が見いだされる可能性が大きくなることが必要不可欠となる。こうして、まさしく、コミュニケーションにおいても、言葉があいまいだからこそよいのである。このように、コミュニケーションにおいて言葉のあいまいさは先鋭的に機能するのだが、コミュニケーションを言語にとって本質的な場としたのはヴィトゲンシュタインである。一方、チョムスキーはコミュニケーションは言語の機能の唯一のものではないとし、コミュニケーションを離れて言語の研究が可能であるとした。日常的言語行為から出発しないチョムスキー流の言語理論にあっては、したがって、言語の「曖昧性」の問題は決して問題にされることはない。思考にあっては言語は世界と自分の間の媒介であったが、コミュニケーションにあっては自分と他人との媒介である。ドイツの神経生理学者ゴルドシュタインによれば、失語症の患者は他人に関心を示さず自閉的になる。言葉を正しく扱えないと、他人を無視し、コミュニケーションが阻害さる。日常言語が最も顕在化する場はコミュニケーションである。日常会話において、言葉の曖昧さを引き起こす大きなモメントは、個人的文脈である。言葉の意味の曖昧さは言葉が置かれた前後の文脈によって生じてくる。文脈とは具体的言述における文脈の他に、広い意味での、個人の置かれた状況、個人の経験・知識などの「主観」の在り方という文脈に依存する。ここでの曖昧さは、総合的定義としての文脈的定義に見られる曖昧さである。日常的に発話される言語は個人的文脈にあると同時に、言語社会における普遍的文脈にも置かれているのである。個人的文脈は「主観」を表出させようとするし、普遍的文脈は「社会」を存続させようとする。そして、言葉を非「主観」化させようとする。日常会話における人間の行為は非「主観」化されている言葉に、再び「主観」の息吹を入れ、「主観」の下に言葉を取り戻すことに他ならない。−−

 ここで提起された「主観」を表出させる「個人的文脈」と「社会」を存続させようとする「普遍的文脈」について更に考えてみよう。ムーナンはこのように書いている。

 G.ムーナン『翻訳』P.178
 −−(列車という語がある話手に用いられた場合)、三人の異なる聞き手にとって、「機関車にひかれた一連の車両」という非言語的現実が、一人にとっては休暇に出発するときの嬉しい雰囲気を、もう一人にとっては災難の思い出や心配を、三人目の人には工場と家の毎日の単調な行き帰りを指向する、というのは本当なのである。翻訳は不可能であると人が言うとき、十回のうち九回までは、一文明から他の文明へ、一つの<世界観>から他の<世界観>へ、一言語から他の言語への移動の可能性だけでなく、最終的には、共通のものである一つの文明、一つの世界観、一つの言語の内部における、個人から個人への移行の可能性にまで疑問をもたせる、これらの共示のことが考えられているのである。結局のところ共示の概念は、翻訳理論に、人間の間の、主観の間の、コミュニケーションの可能性なり限界なりの問題を提起するのである。−−

 人がコミュニケーションを行なうときには、ことばの「適度なあいまいさ」が良い方向に作用していると言えるだろう。日常的なコミュニケーションに用いられることばの意味は確定的なものではなく、だからこそ相互のコミュニケーションがスムーズに行われるのである。語の意味領域という角度から考えると、ある人の言う「林」は他の人にとっては「森」である可能性は大いにあるが、それは日常的な会話におけるコミュニケーションそのものを阻害するほどの問題にはならない。むしろ「林」と「森」の切り分け方の基準が明確ではないからこそ個人の主観を超えた社会的コミュニケーションが可能になるのである。

 ことばはこのようにその成り立ち(世界の分節化)においても、個々の語の意味領域においても、そして個人の主観的なとらえ方においても、全ての段階で曖昧であり、その曖昧さによってコミュニケーションが成立する。ことばとコミュニケーションは仮想現実の世界において機能している。仮想現実であるコミュニケーションは人によって操作可能であることも意味している。ことばの本質的な曖昧さと多義性による様々な解釈の可能性を悪用し、普遍的文脈の周縁に存在する極端な解釈をことばに与えるとき、詭弁が生まれる。

以 上