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通訳者に求められる言語能力

通訳者は、母語と第二言語を同時に扱う必要がある。これは第二言語学習によって身につけられる言語能力と一致しない。したがって通訳能力を外国語教育の成果として考えることは適当でない。通訳教育は外国語教育の延長線上にあるのではなく、ある時点から外国語教育と分岐するものであろう。

はじめに

 第二言語学習では、話し手の言葉を通じて思想や指示等を理解すること、自分の考えを相手に理解できるように述べること、相手国の社会文化の中で適切な言語行動をとることができれば、まずは目的を達せられたと考えてよいのではなかろうか。このような意味からは、二カ国語を自由に操り、双方の文化に通じた者は既に第二言語学習の最終目的を達成していると言える。例えば、長期間にわたって海外で暮らした経験を持つ日本人や、日本で育った外国人などで、いわゆるバイリンガル(ここでは幼時から二カ国語の環境で育った狭義でのバイリンガルを指すこととする)と呼ばれる人々がこれにあたる。

 もしも通訳者に求められる言語能力が上述のバイリンガルと全く同様であれば、これらの人々はあらためて訓練を受けるまでもなく通訳業に従事できるはずである。しかし、実際にはバイリンガルであることが必ずしも絶対的な優位とはならない。ほとんどの通訳者は言語習得の臨界期以降、英語以外ではだいたいにおいて十八歳以上になってから外国語学習を開始しており、バイリンガルはむしろ例外的ですらある。

 通訳者は談話の主体とはならず、常に話し手と聞き手の間に立って、すでに与えられた言葉を扱う。これは通訳能力を論じるときには重要な視点となるはずだ。通訳者には自ら話題を提供する必要がなく、相手の話しかけに反応して行動する必要もない。ただ話し手の言葉を理解し、聞き手にその内容を理解させればよい。通訳者には意見を表明する機会はない。外国語教育が自らコミュニケーションの主体となる言語能力を目指すものだとすれば、通訳訓練はコミュニケーションの枠組みの外にいる第三者としての言語転換能力を習得させる目的を有しているといえよう。実際、フリー・ディスカッションやスピーチの授業で進んで話をする積極的な学生に必ずしも通訳者としての適性があるとは限らない。     では、通訳者に必要な能力とは何だろうか。第二言語の能力とどう違うのだろうか。

外国語を聞くこと――聴取と理解について

 通訳者にとって「聞く」ということは、談話の内容を再現するためである。我々はふだん、人の話を聞くときにその話を細部にわたってまでもう一度繰り返すつもりで聞くことはない。外国語教育の目指す「聞く力」は話の内容を理解し、自ら何らかの適切なレスポンスを起こすための能力である。

 話を聞くときは、連続する音声を認知し、その連続音を意味のあるまとまりに切り分けてとらえ、語を認識する。そして、さらにいくつかの語をまとめてシンタクスに照らして句や文としての意味を受け取る。ヒトの話し言葉は完全なものではないので、時には類推や補強が必要になるだろう。またある程度意味がまとまってきた時点で、後続する情報の予測が可能になる。また、言葉それ自体によって提示されている情報以外の背景知識を含むコンテクストを参照しながら談話を理解していく。談話が終了した時点で、ひとまとまりの情報や概念が得られ、談話が理解される。ここまでは外国語学習の範囲である。

 通訳者は、上記の理解に加え、整理と記憶を同時に行っていく能力を求められる。例えば、いくつかの語で構成されるひとまとまりの情報をとらえた時点で認知ファイルが一つ完成する。同時通訳であればこの認知ファイルが完成した時点で目標言語に転換してデリバリーされる。逐次通訳であれば、次々に送られてくる情報は逐次整理されファイリングされて蓄積していく。そしてそれぞれの情報ファイルは相互の関連性によって適切な位置に並べられ、この作業は談話が継続している間は連続して行われ、時には適宜並べかえやファイルの修正も起こりうる。情報の内容と提示の順序は「ノートテイキング」という記憶補助手段を伴って記憶され、談話が終了した時点で目標言語の形式を用いて再現されることになる。

 一方、通訳者は談話を聞き終えた時点で自らその談話内容に関する意見を表明する必要がないため、「どのように答えようか」ということを考えていない。談話を聞いている最中は完全に理解・整理・記憶に専念することができる。また、そうでなければ談話の内容を再現することは難しい。通訳者としての聞き方をしている時に、急に自分の意見を求められても咄嗟には答えることができないのはこのためであろう。また、何につけても自分の意見がなく主体性のない人は外国人と対等にコミュニケーションできないと言われるが、通訳者にはなれると言う事も可能である。逆に主体性があり過ぎて人の話を聞いている最中にも自分の意見ばかりが頭の中に充満して「次にはああ言ってやろう、こう言ってやろう」等と考える人は、積極的に外国語を話す能力は身につくだろうが、聞く能力としては通訳者に向いていない。また、同様に言葉の「裏の意味」を詮索する癖のある聞き方も、精神資源を余計な部分に浪費することにつながり、しかもオリジナルに忠実な再現を阻害する恐れがあり、通訳者としての適性に疑問を感じる。通訳者としてのよい聞き方の基本は、発言に表れた言葉を100%ありのままに受け止めることである。

2.外国語を話すこと――転換と発話

 前述のとおり、外国語教育の一つの目標であると思われる「自分の意見を述べることができる」能力は、通訳者にとって必要なものではない。話す材料は全て他者からあらかじめ与えられているのである。したがって、通訳者はその材料をどう扱うか、つまりいかにうまく転換するかを考えればよい。外国語教育では、翻訳・通訳の形式が学習過程で取り入れられるとはいえ、それは第二言語能力を習得するための便宜的な手段であり、訳すことそれ自体が学習の目標となるものではない。

 通訳者の立場は、「聞き手であると同時に話し手でもある」とも言えるし、「聞き手でないと同時に話し手でもない」とも言える。実際に話を直接理解して聞いているのは通訳者であり、その内容を聞き手に伝えているのも通訳者である。しかし、話し手が通訳者を自らの談話の聞き手であると認識しにくいのと同様に、聞き手も通訳者の話を聞いているとは考えにくい。コミュニケーションの主体はあくまでも話し手と聞き手である。

 通訳者の役割は、話し手と聞き手のコミュニケーションの一部である言語情報の伝達である。言語以外のメッセージ、あるいは言語化されなかった意図などは、通常の場合、通訳行為の対象とはならない。つまり、転換の際に、通訳者が直接に扱うものは起点言語の記号表現を通じて得た記号内容と、それにもとづいて構成した目標言語の記号表現ということになる。当然、通訳者が話し手や聞き手に何らかの感情を抱くことはあるが、情報を忠実に伝達する機能はあくまでも保たねばならない。そのためにも、通訳者は言語転換においては、人間ではなく、まず言語記号を見つめる必要があるだろう。

 効果的な伝達を行うためには、高度な言語能力が必要とされるが、外国語教育だけでは達成し得ない能力として、起点言語の記号表現にひきずられずに目標言語を構成する力が重要である。例えば、起点言語で受動態を用いていても、目標言語では能動態で表すことが普通であったり、実際の記号表現には表れていない単数・複数の区別や主語を補うなど目標言語の習慣的用法と表現形式の特徴に合致するような転換を行う能力である。これらは全て発言の意味内容とは関連のない、それぞれの個別言語の統語構造、語義、慣用に関する問題である。

 意味内容を伝達するうえで、聞き手にとってのわかりやすさを追及するあまり起点言語の内容を歪曲するようなことがあってはならない。外国語を話す能力を身につけることは、ある意味で母語から離れてその言語の文化を獲得することにつながり、現地の人々の思考様式と表現形式で話すことができるのが理想かもしれない。しかし、通訳者は言語転換の際に起点言語の文化が持つスタイルをできるかぎり保つことが望ましいのではないか。通訳者養成校の受講生からは「曖昧模糊とした日本語をそのまま訳しても意味が伝わらない」という声をよく聞く。しかし、通訳者の独自の判断による解釈で別の明確なメッセージに言いかえてしまったら、それは発言者のものではなくなってしまい、コミュニケーションの主体となってはならないという通訳の原則に背くことになるだろう。発言者は「曖昧に話す権利」も持っているのである。この点からも、通訳者には、「外国語の発想で考え、話す」ことを目標とする外国語学習とは別の能力が求められていることがわかる。

 実際に発話する段階で求められるスピーチパフォーマンス能力は、逐次通訳の場合は通訳独特のものはない。同時通訳では、起点言語の情報提示の順序に沿って、目標言語を伝達しても文法的破綻をきたさない工夫が必要となる。

おわりに

 以上に見てきたように、通訳者に求められる能力は、外国語学習の最終到達点とはいえず、特別な訓練をする必要がある。その一方で、外国語学習が究極的に目指す能力の中には、通訳者にとっては不必要なものもある。通訳訓練を行い、通訳能力を養うためには、学生にその適性があるかどうかを測定することも課題となろう。       以 上

参考文献:日本時事英語学会関西支部同時通訳研究会分科会・研究報告(1996年3月)
     月刊『言語』1997年8月号 特集「通訳の科学」